母は娘を産み、娘は母となる。

6faf9fdd9d5b82b2dc4008b65e5ed67c1男性である私にとっては、母と娘の絆というのはわかるようで本当にはわからない。父と息子との関係とは全然違う、女性どうしならではの深いつながりがあるように思う。それはあるときは押し付けがましいほどの愛情であり、またあるときは血の流れるような激しい憎しみであり、そしてまたあるときには底なし沼のようなべったりとした共依存であったりするのだろう。映画「愛する人」(原題: Mother and Child)はそんな母娘関係というテーマを、静かなドラマの中にとらえた秀作。

14歳で妊娠・出産し、母親の意思によって娘を養子に出さざるを得なかった主人公カレン。そして実の親を知らずに育ち、「産む性」であることを強く拒否するようになった娘エリザベス。生きる喜びを感じられず、氷の塊のように冷たく頑なだったふたりの心が、周囲の人々の愛を知ることによって少しずつほどけていく。やがてお互いを探し求めるようになる過程が、じんわりと抑制された語り口で描かれる。ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をテンプにしたと思しき音楽が、心に沁みる。

しかし、生き別れた母と娘はついに出会うことがない。物語としてこれ以上の悲劇はないだろう。それでも母は、娘が遺した孫娘に会うことで、大きな安らぎを得る。母から娘へ、そして娘から孫娘へ、命が継がれていくイメージが素晴らしい。そしてラストシーン、カレンがいまはもうこの世にいない娘にあてて書く手紙。うーんやられた・・・と思いつつも、涙を止めることができない。見る人の感情を深く揺さぶる映画だ。

ドラマの中には様々な母娘が繰り返し描かれる。そして繰り返される出産シーンは、母と娘の関係が「産む性」としてのフィジカルかつスピリチュアルなつながりであることを強調している。これは母と娘がどこまでも連なっていく物語であり、この連鎖の中では、男性はタネ付け(失礼)をするという以外にほとんど意味を持たない。男性としては複雑な心境なのだが、これが女性にとってのリアルな感覚なのだろうというのはわかる。母と娘はとても近く、とても遠く、ずっと離れていても片時も離れられない、そんなものなのだろうか。

プロデューサーは「バベル」のイニャリトゥ。独立して別々に進行する複数の物語が最後にひとつになるといういつもの手法は、ここでも効果的に用いられている。そして監督は、これでもう「ガルシア=マルケスの息子」という肩書から自由になることができるだろう。

ロドリゴ・ガルシア監督、2009年。

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70年代フランス賛

20517_01_l11970年代のフランス文化をいま振りかえると、確かにちょっと魅力的かもしれない。野暮ったさとおしゃれ感のギリギリのバランス。同時代的に体験していない人がこの感覚を理解してくれるかどうかわからないが、映画「しあわせの雨傘」は、そんな70年代後半のフランス文化へのオマージュともいえる作品だ。

果たしてこれは世界的なマーケットを意識しているのだろうかと思うほど、フランス人向けの内容。とある一地方におけるブルジョワと労働者階級の対立、そこにからむ自由奔放な恋愛劇。全体としては軽いコメディであり、物語は決して深刻にならない。まさにフランス的な笑劇(ファルス)だ。女性の自立をテーマにしているようにも見えるが、これも「当時はよくこういうことが話題になりましたよね」という記号として扱われているだけだと思う。それよりも、衣装や小道具に徹底されている70年代テイスト、合成画面を随所で用いるポップな編集、ミュージカルのように全編に流れる70年代後半のフレンチ・ポップスなどからして、この作品の本質は70年代フランスへのノスタルジーであり、それ以上でもそれ以下でもないと私は考える。フランス好きなら楽しめるだろう。作品としてのメッセージはないようなものだが、それをいうのはそれこそ野暮というもの。

むしろこれはカトリーヌ・ドヌーヴの映画だと考える方が良い(「ブルー・ハワイ」がエルヴィス・プレスリーの映画だというのと同じ意味で)。邦題は「シェルブールの雨傘」とかけたのだろうけれど、雨傘とドラマはそんなに関係ないのでちょっとミスリード気味だ。原題はブルジョワ夫人を象徴する「potiche=飾り壺」。それにしても、ブクブク太って見るも無残なドパルデューには口あんぐり。

フランソワ・オゾン監督、2010年。

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タンクの中の恐怖

T0009453p1レバノン戦争の初日を、戦車で侵攻したイスラエル軍の兵士の視点から描いた映画「レバノン」。そもそも「レバノン戦争」というものを生々しく感じることが(私を含めて)多くの日本人には難しいわけだが、なんでイスラエルの兵士がレバノンに侵攻しているのか、迷い込んだ先がなぜシリア占領地域なのか、そしてなぜ友軍がファランヘ党なのか、きちんと説明できる人もなかなかいないだろう。それだけこの戦いをめぐる政治状況は混沌としているのだが、どうやらそれは戦場の兵士たちにとっても同様だったようだ。自分たちがなぜここで戦っているのか、そして誰が敵であり、誰が味方なのかさえ、上官を含め誰もはっきりとはわかっていないのだ。

この映画の最重要ポイントは、戦争映画であるにもかかわらず、カメラが最初から最後まで狭い戦車の中から出ないというアイデアである。狙撃手は照準器を通してのみ、外の世界の悲惨な光景を見る。ドラマは徹底的に戦車の中という密室で進行し、暗闇の中でスクリーンを見つめる観客たちも、兵士たちと一緒に戦車の中に閉じこもっている感覚を味わう。極限状態の中で敵に囲まれ、戦場にぽつんと取り残されること。その恐怖感を兵士たちとともに感じることが、このアイデアの狙いだ。これが、兵士たちが感じていた感覚なのだ。

泥と油と血液が混じりあったドロドロの液体が、戦車の内壁をつたってたれていく。何度も繰り返されるそのしつこいショットが、監督が感じた戦場の空気を表している。それと対比される青空の下のひまわりの映像の鮮烈さ。ひとつの視点に徹底的にこだわり、伝えたいことに集中することでできあがった、恐ろしい映像作品だ。見終わった後は茫然としてしまう。殺し殺されるというこの恐怖が現実であったということに、言葉もない。

サミュエル・マオズ監督、2009年。

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SNSで人は幸せになれない

001l1つい先日、ゴールデン・グローブ賞4冠というニュースも飛び込んできた「ソーシャル・ネットワーク」。マーク・ザッカーバーグがどのようにして世界最大のSNSであるフェイスブックを始めたのかを題材とした映画だ(フェイスブックの発想がアイヴィー・リーグの学生クラブ=フラタニティから生まれているというのを初めて知ったが、なるほど納得)。よくできた青春物語ぐらいかなと思って観始めたら、予想を大きく裏切ってとても面白かった。すでに出ている「現代の『市民ケーン』」という評は、まさにその通りだと思うが、もう少しだけ付け加えたい。

単なる「億万長者の孤独」というだけではなく、ソーシャル・ネットワークという「人と人とのつながり」をつくるシステムを開発した張本人が、結局誰とも人間的な関係を結ぶことができないという皮肉がストーリーの基本にあることは確かだろう。しかもマーク自身は他人と深くつながりたいと熱望しているのにもかかわらず、である。それを阻んでいるのは彼の壮大な自己愛であり、コンプレックスに基づく自己顕示欲だ。そしてそのようなマークの姿は、実はSNSにどっぷりとつかってしまっている私たちの姿に重ねられていることを作品からきちんと読みとらなければならないだろう。彼がフェイスブックに登録したかつてのガールフレンドにメッセージを送り、執拗に何度もリロードしてメッセージが返ってきているかを確かめようとする姿は、自己愛にまみれながら、毎晩PCに向かって誰かと「つながろう」としている私たち自身の姿そのものなのだ。

しかしながら、作品全体としてはそういう特定の解釈をあまり押し付けてはこない。マークの姿(あるいはフェイスブックにまつわることのすべて)を多義的に描いていると感じられる。私よりももっと若い世代で、ITベンチャーに近い業界の人などは、マークという人物に強い親近感を持って感情移入して見るだろうし、ナップスター創業者のショーン・パーカーのスタイルを「クール」と感じたりするだろう。マークをアイデア盗用で訴える双子兄弟(これを実はひとりで演じていることに驚き。ティム・バートンのハンプティー・ダンプティーどころではない、驚くべき完成度)の主張に共感する人だっているかもしれない。ある意味、この物語に「悪人」はいないのだ。現在進行形の物語だけに、価値判断は観る人に委ねたいという監督の意図があるのだろう。だから先述したことも私なりの感じ方なのだが、SNSに一度ははまりながらもやめてしまった(そしてそれを本当に正解だったと思っている)私としては、ネットでのヴァーチャルなつながりのあり方がいかに進化していこうとも、深く感情的なリアルのつながり―家族との談笑、友人との握手、恋人との抱擁やキス―なしには人生は絶望的に空虚だと感じる。SNSは便利だ。しかしそれで人は幸せにはなれない。そしてそのことを一番よくわかっているのが、マーク・ザッカーバーグ本人なのだと思う。

監督のデヴィッド・フィンチャーと脚本のアーロン・ソーキンは素晴らしい仕事をしている。シフト・レンズを多用した映像には強くひきつけられるし(特にボート・レースでのティルト・シフト・レンズの異化効果は面白い)、冒頭のマークのナード(オタク)節全開の高速お喋りに始まる言葉の詰め込み方がまた凄い。トレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)の音楽も受賞に値する出来だったが、個人的にはエンディングにビートルズの Baby, You're Rich Man を持ってきたセンスに悶絶。本当に、どこまでも現代的で「クール」な作品だ。10年後に観れば、また全然違った風に感じるだろう。

デヴィッド・フィンチャー監督、2010年。

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JLG

Mainphoto1この映画についてはいくらでも書けるような気もするし、何を書いてもまったく徒労に終わるような気もする。だから観たという自分の記録として書き記し、手短に済ませよう。全編をHDカムで撮影し、ファイナル・カット・プロで編集したゴダール初の全編デジタル・シネマ、「フィルム・ソシアリスム」。ほぼすべてのセリフが引用(クレジットで典拠も示されている)。音も映像もノイズに満ち溢れており、ここにきてゴダールのソニマージュはまた全然違うところに向けて走り出している。もはやECMの音楽はなく、言葉を失うような美しいカットもない。アルゴ号をモチーフにして始まるストーリーは、ヨーロッパ文明の始原に向かっていくようにみえるが、その航海のどこかで音と映像の渦の中に飲み込まれ、あてどなく漂い続ける。ヨーロッパとは何か、どこから来たのか、そしてどこへ行こうとしているのかとゴダールは問うている。

ゴダールの映画は、音楽を聴くように観ないと「理解」できない。そしてその圧倒的な体験は、観た者が思わず何事かを語りたくなってしまうようなものだ。でも残念ながら、その体験を上手に語るだけの力を今の私は持っていない。うまく言葉にはできないけれど、なんだか凄いというものも世の中にはたくさんあるのだ。通人のふりをして借り物の言葉でゴダールを語ることは、この体験を矮小化してしまうだけのようにいまの私には感じられる。いまはただ、リアルタイムでゴダールを観ているということの意味を、いつか自分の言葉で語れるように準備しておくだけだ。それまでは「ノー・コメント」で。

ジャン=リュック・ゴダール監督、2010年。

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ひたすら疾走の1時間半

C_unstop1暴走する列車の映画といえば、コンチャロフスキー(脚本は黒澤)の「暴走機関車」を超えるものは今後もまずないだろう。あれと真っ向から勝負するのは難しいと、当然プロデューサーも監督も考える。勝てるのは進化した撮影技術だけだ。だから作品に深みを加える人間ドラマのようなものはバッサリ省いてしまい、とにかく迫力のある鉄道の映像を撮ることにすべての資源を注ごう。おそらくはそういう考えで作られたのがこの映画「アンストッパブル」である。

ヘリコの空撮を多用した、スピード感満点のスリリングな映像が素晴らしい(映像にはこだわるスコット兄弟の腕の見せ所)。結末はだいたいわかっているのに、思わず手に汗を握る映像の力だけで最後まで見せ切ってしまうのだから凄い。その一方で、ストーリーはこれ以上単純化できないほど単純。「暴走する列車を止める」、ただそれだけである。主人公たちの家族物語は、本来は時間を割いて感情移入たっぷりに描かれる要素なのだが、完全に背景に退いている。やや反発しあっている主人公同士の関係など、観客をハラハラさせる上では最高においしい要素だと思うのだが、物語の中でこれは活かされない。サイドストーリーと呼べるのは、利益を優先するあまり事態を甘く見る鉄道会社の話だけだ。本当に、ただただひたすら列車が暴力的に疾走するだけの映画。

正直なところ、本作の上映時間である1時間38分は、この手法で見せられる限界時間であるように思う。観終わった後は安堵感と同時に「これだけ?」という拍子抜けが待っている。

トニー・スコット監督、2010年。

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アギレラの大作PV

Main_burlesque1今年もよろしくお願いします。今年最初に観た映画は、公開時から意外に評判の良い「バーレスク」 。結論から言えば、シェールをスペシャル・ゲストとして迎えたクリスティーナ・アギレラの豪華なPV(所属レコード会社であるソニー・ミュージックが制作)でした。いや、別にけなしているわけではありません。

題材は、田舎からスターを夢見て大都会に出てきた女の子のサクセス・ストーリーという恐ろしいほどありきたりなものだし、そこにからんでくるロマンスとか店の経営難といったサイド・ストーリーもおきまり。でも、そもそもPVに入り組んだストーリーなど必要ないでしょ?この作品は実質的にミュージカル仕立てで、ひたすら歌とダンスを見せるものです。ただ、その見せ場が「シカゴ」みたいに複数の役に割り振られているのではなく、アギレラひとりに集中している(そしてちょこっとシェールの見せ場もある)というわけ(だからミュージカル映画ではなくPVだといえる)。で、確かにアギレラの歌とダンスはエンターテインメントとして素晴らしい。ということで、アギレラファンにはたまらないだろうし、ミュージカルファンも楽しめるだろうし、洋楽ファンやダンス好きにもある程度アピールする作品といえます。カップルがデートで観るには悪くないでしょう(ちょっとエッチだし)。映画としては全然たいしたことがないのですが、音楽PVとしては良く出来ています。あとは、1800円払ってアギレラのPVを観ることに納得できるかどうかということです。

それにしても、Wikipedia によるとシェールは64歳なんだが、信じられん。森光子に肉迫する驚異だ。それから、スタンリー・トゥッチにオシャレなゲイ以外の役はないのか。これじゃ「プラダを着た悪魔」のときと同一人物だ。

スティーヴン・アンティン監督、2010年。

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ロビン・フッドの政治性

001l1「『グラディエイター』よふたたび」という感じの、リドリー・スコット監督とラッセル・クロウのコンビによるハリウッド歴史大作「ロビン・フッド」。ロビン・フッドといえばどうしてもケヴィン・コスナーを連想してしまうが、こういう先行作品に、まったく違う視点を持ち込んで異化するのがこの監督の得意技だ。今回は作品のバックボーンにイングランドの成立とマグナ・カルタを据えることによって、伝説の物語をよりリアルな史実の中に位置づけることに成功している。以下ネタばれあり。

いつもながら、映像の力が凄い。冒頭の見せ場となるフランスの城攻略、そしてクライマックスとなる海岸でのイングランド軍とフランス軍の激突、このふたつの戦闘シーンにかけられているヒト・モノ・カネは尋常ではない。そして、それを迫力満点の映像に仕上げるリドリー・スコットの才能にはただただ感服。武器や建築や衣装といったディテールへのこだわりと、美しい自然を見せるロケーションへのこだわりが、13世紀初頭のイングランドをリアルに現出させる。ユーモアもあり、ロマンスもありで、ハリウッド・ムーヴィーの一番美味しいところを、極上に仕上げて出してくれる。映画を観るという体験の面白さを、文句なしに味わせてくれる作品だ。

もちろん、「ロビン・フッドの誕生」にしてはラッセル・クロウが年取り過ぎなんではないかとか、ヒロインのマリアンがヨロイを着て闘っちゃうのはやりすぎじゃないかとか(ヒロインが強いのはリドリー・スコット作品のトレードマークだが、ここまでやると歴史的事実を曲げてフェミニストに迎合しているように見えてしまう)、細かいことはいろいろあるが、観客を力ずくでねじ伏せるような強い映像の前では何を言っても仕方がない。ただ、戦闘でマリアンが死んだように見せておいて、実は生きていたことが後でわかるのは、ウェルメイドの作法としてはちょっとひっかかるけれど。

映画としての出来はともかく、作品としてのメッセージはちょっと気になる。内憂外患に苦しむイングランドを国家として盤石なものにするため、民衆に自由の権利を保障すること。そして、個人の自由を認めない国家に反抗するアウトローを賞賛すること。これはまさにいまアメリカ政治を賑わしている「ティー・パーティー」の政治的主張と重なるところがあるのだ。リドリー・スコットはイギリス人だから、どれだけこのメッセージの政治性に意識的であるかはわからないが、制作会社は十分に考慮しているだろう。それだけこの思想はアメリカ人には受けるんだなあ、と改めて感じた次第。あえて挑発的な物言いをしてみれば、これは「反オバマ映画」ということになる。

音楽はハンス・ジマー門下のマーク・ストライテンフェルド。ジマー御大が忙しくなってしまったのか、ここしばらくリドリー・スコット作品はこの人が付けている。もう何作も一緒にやっているところをみると、監督も気に入っているのだろう。それにしても御大そっくりのスコア。おそらく監督は御大の「グラディエイター」、そして同門ハリー・グレッグソン=ウィリアムズによる「キングダム・オブ・ヘブン」)をテンプにしているとみたが、どうだろう?

リドリー・スコット監督、2010年。

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ディズニー的3D映画

Tnr1012170921003p11「トロン:レガシー」を見た。1982年の「トロン」第1作公開時、私はまだ小学生で、本編を映画館で観ることはなかった。でもたぶん予告編か何かで映像を観ているので、あの映像感覚は(当時の時代感覚とともに)頭の中に焼き付いている。今回の新作に関しては、おそらく第1作を観ている人とそうでない人はやや感想が違うだろう。登場するキャラクターの意味合いなど、第1作を観ているファンの方が理解しやすい部分があるのだ。もちろん、観ていなくても理解できるようには作られている。いずれにしても、評価の大きな部分は変わらない。

ストーリーに関して言うと、恐ろしいほどに単純である。「主人公が故郷から異郷に試練の旅に出かけ、そこで悪と対決する。両義的な存在の助けを得て悪を倒し、女を得て故郷に戻る」。思わず物語の構造分析の事例にしたくなるほどだ。ついでに言うと、エディプス・コンプレックスそのままの父殺しの物語でもある。ということでほとんど神話レヴェルまで単純化されたお話だ。平板とまでは言わないが、完全に予想できる安心な展開。もうこれは、ストーリーはどうでもいいから映像を楽しんでください、というメッセージにしか思えない。

その映像だが、このレトロ・テクノ感覚は確かに美しい。CGの世界になってから3Dになる、というアイディアも悪くはない。しかしこの映像、全然驚くようなものではないだろう。全編を通じて画面が暗くてメリハリに欠けるし、いまさらCGの技術がどうこういうような時代でもない。3Dの技術も、正直言ってこんなものかと思った。前宣伝が派手だっただけに、これまでの3D映画とは何か違うものが「体感」できるのかと思って期待したが、この程度だったら2Dでストーリー・テリングの巧みな映画の方がはるかに楽しめると感じた。3Dがそこまでの表現効果に至っていないのだ。それでも3Dということで料金だけは高いのだから、恐れ入る。私は3D映像表現の可能性を否定するものではないが、私たちはまだ本当に面白い3D映像作品を作り出せていないと思う。

ということでまたしても辛口の評価になってしまうが、ストーリーが平凡で映像もイマイチなのだから仕方がない。良かったのはダフト・パンクの音楽ぐらいか。この映画をもとにしたアトラクションかゲームの方が映画よりはるかに面白そうだと思ってしまうのだ・・・ああ、そういうことだったのか。やっぱりディズニー映画だね。

ジョセフ・コシンスキー監督、2010年。

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No way!

Tnr1010080820005p11 人気のある文芸作品を映像化して成功を収めることは非常に難しい。その作品に接した多くの読者が、自分なりの作品世界を頭の中に作り上げてしまっているため、どんなに理想的な配役で素晴らしい映像を撮ってもすべての人を満足させることはできない。また、言語の連なりによって描かれている世界を、限定された時間内のリニアな映像表現に置きかえる上での省略や翻案も、愛読者の強い反感を招く。これらはすべて当たり前のことであり、「あの役のイメージが違う」「あのエピソードがない」という映画評は無意味である。しかし、いま公開中の「ノルウェイの森」には、そういう次元とは別の根本的な問題があるように思える。

監督はヴェトナム系フランス人であるトラン・アン・ユン。学生の頃に見た「青いパパイヤの香り」が懐かしい。この人の映像表現には確かにオリジナリティがあり、1960年代末の東京が東アジア特有の湿度と熱を帯びた無国籍の風景に見えてきたりする。おそらく彼は村上春樹の作品には興味を持っているけれども、日本文化に造詣が深いわけでもないだろうし、作品の背景となっている社会状況の細部にも無関心だろう。その結果、ヨーロッパ人が村上春樹の「ノルウェイの森」という作品をどのように受容しているか、ということをうかがい知ることのできる仕上がりになっている。その点は、まあ興味深いと言えないことはない。だが・・・。

大きな問題のひとつは女優のキャスティングである。菊池凛子はまあ置いておくとして、なぜ水原希子というモデルあがりの新人を緑という重要な役に持ってくるのか。セリフ回しのできない(というか日本語すら怪しい)素人に、村上作品独特のセリフをそのまま言わせることには相当無理がある。結果としてこの女性の造形が全くできておらず、ワタナベ君がこの女性のどこに魅力を感じているんだかさっぱりわからない。また、霧島れいか演じるレイコさんという人物の造形も不明瞭。原作ではこの人は同性愛的な傾向をほのめかされているのだが、映画ではそういう含意はほとんど感じられず、存在感が極めて薄い。それなのに最後にいきなりワタナベ君とセックスするので、まるで意味がわからないのだ(明らかに監督は原作におけるこのシーンの意味を取り違えているか、理解していない)。

もうひとつの大きな問題は、語りの姿勢だ。原作は、37歳になった「僕」が、ドイツに到着した飛行機の機内放送で「ノルウェイの森」を聴いて、深いメランコリーにとらわれることから始まる。作中の出来事はすべて音楽によって導かれた現在の「僕」の追憶であり、全体にノスタルジーの薄い靄がかかっている。物語はすべて主人公の薄れかけていく記憶における内省であり、この大前提が共有されないとこの物語をどう見ていけばよいかという視点が定まらない。しかしながら映画においてはこの前提が明確でなく、物語があたかも現在進行形のように進むため、非常に平板な印象を与えるのだ。

結果としてこの映画作品からは、「虚無感に打ちひしがれている1960年代末の日本の若者たちが、セックスだけに生のリアルさを感じつつ生きているが、周囲の人々の死を経験することで、やがて責任ある大人に成長していく」というような、何とも浅薄なメッセージしか受け取ることができない。『ユリイカ』1月臨時増刊号で四方田犬彦氏が述べているように、この作品は「日本のTV局が韓流ドラマを作ろうとして適当な人材が見つからず、原作者の推薦するヴェトナム人に監督を任せたという程度の作品」である。フジサンケイグループと電通は、本当に「いい作品」を作ろうという気があるのだろうか?

トラン・アン・ユン監督、2010年。

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