ノリノリノリントン!

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4月のN響定期Cプロ初日(22日、NHKホール)。指揮はロジャー・ノリントンということで、「対向配置、ノン・ヴィブラート」仕様のN響である。オール・マーラー・プロ。

花の章(ブルーミネ)
さすらう若者の歌(バリトン:河野克典)
交響曲第1番ニ長調「巨人」

つまり、第1番の成立にまつわる曲を集めたプログラム。もちろん、「さすらう若者の歌」のメロディーが第1番に転用されている(あるいは、ひとつのメロディーがふたつの曲で共有されている)ということを私はすでに知っている。しかし、この2曲をコンサートで続けて聴くことで、そのような前知識以上のことを体感することができる。例えば、歌曲集の第2曲にある「今朝、野山を歩いていると(Ging heut' morgen übers Feld)」の旋律が第1番の第1楽章に現れるとき、歌詞はなくても、そこには草露に濡れた野原の情景がありありと浮かんでくる。そして第4曲にある「道端に菩提樹が立っている(Auf der Strasse steht ein Lindenbaum)」の旋律が第3楽章に出てくれば、苦悩に打ちひしがれた者がたどりついたはかないやすらぎのイメージ(それは死のイメージとつながる)がすぐに想起されるという具合に。さらに、歌曲集そのものが「愛している人が自分以外の男と結婚する」という物語を持っていることを考えれば、第3楽章で葬送行進曲を中断して流れ出す賑やかな音楽は、ユダヤの婚礼音楽(すなわちクレズマー)以外のなにものでもないことに思い至る。第1番をより深く味わうためのプログラムといえる。

正面最後列に8本のコントラバスを並べた対向配置(ただしティンパニは2台とも舞台上手、下手は打楽器類)、ヴィブラートをかけすぎない「ピュア・トーン」の使用はやはりノリントン。しかし、そんなピリオド・アプローチ的な要素とは無関係に、これは素晴らしい演奏だった。全体的に音量を抑えながらも、ここぞとばかりに大爆発して急速なアッチェレランドをかけたり、第3楽章の中間部を実に夢幻的な音色で響かせてみたり(クレズマーも雰囲気が出ていて最高)。第4楽章のエンディングの速さも特徴的で、これを「あっさり薄口」と感じる人もいるのだろうけれど、名だたるマーラー指揮者たちによる過度にロマン的な解釈をはぎとった、新鮮な「巨人」像だと感じた。音楽をオケにまかせるように棒をふるノリントンも、この曲の指揮姿としてはあまりない感じで面白い。そして第4楽章の見得を切るようなゲネラル・パウゼ、好き。

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神奈川フィルハーモニー第271回定期演奏会(4月23日、横浜みなとみらいホール)。指揮は金聖響で、マーラーの交響曲第7番。冒頭に金による震災へのコメントと、被災地に捧げるバッハのアリアがあった。

第7番の実演を聴くのが実にひさしぶり。なぜかここ4~5年、この曲がどこかのオケにかかるときいて聴きに行こうかなと思うたび(なんせ実演の少ない曲なので)、転勤になってしまったり、仕事の予定とかぶってしまったりで、いつもチャンスを逃していたのだ。金の指揮は実にエネルギッシュ。自分がまだスコアを勉強しきれていないせいもあるのだけれど、前半はこの曲ならではのごちゃごちゃ感が強く出てしまって、なかなかひとつの音楽として聴こえてこないもどかしさがあった。しかし第3楽章以降は見事にまとまって、第5楽章はかなりの熱演。第4楽章のマンドリン・ソロも印象的だった。

2年越しマーラー・イヤーの巡礼は続く・・・。

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マーラーおたくのための歴史的録音

51p7lwqjvll_sl500_aa300_1全国数千万(たぶん)のマーラーおたく必携のCDが出ました。ここから先は、マーラーおたくの人以外は読まなくても大丈夫です。読んでもたぶん何のことだかさっぱりわかりません。マーラーの未完の交響曲第10番の、ゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団による、いわゆる「クック第1稿」の初演(1960年12月19日のレクチャー・パフォーマンス)と、ゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団による「クック第2稿」の初演(1964年8月13日のプロムスにおける演奏)がカップリングされた3枚組CDです(Testament)。

まず前者はBBCのラジオ番組で、クック自らがピアノを弾きながら、ときにはオーケストラを部分的に響かせながら、曲を解説しているパート(Disc1、テキストはTestamentのHPでダウンロード可能) と、第1稿として演奏可能な部分をブロックごとに演奏しているパート(Disc2)に分かれています。曲として完成していない「第1稿」を聴けるのはこのCDだけで、演奏そのものはややぎこちない感じではありますが、非常に貴重な録音です。そして、アルマらから欠落部分の資料提供を受けて完成させた「第2稿」の初演(Disc3)。この演奏は素晴らしい。マーラーと親交があったゴルトシュミットの共感が深く入っていて、冒頭のヴィオラの歌から実にねっとりとしている。フィナーレに入る前後の大太鼓もドキッとするぐらい強烈に打ち込まれています。10番に関しては最近なんだかカーペンター版の録音が多いような気がしますが、これを聴くとやっぱりクックだよ!と思います。

ちなみに私はバルシャイ版も好きです。「もしショスタコーヴィチが補筆していたら…」という妄想を抱かせてくれるような響きだし、なによりナマが強烈だったので。感激のあまり、マエストロの楽屋まで押しかけてしまったのが懐かしい。もうバルシャイもこの世の人ではないのだなあ。

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雪のマラ3

Myungwhunchung1降りしきる雪の中、チョン・ミュンフン指揮、N響2月定期Cプロの初日を聴くためにNHKホールへ(2月11日)。曲はマーラーの3番。4管18形の大編成で、非常に充実した、かつ緻密な響き。聴いていて最初に頭に浮かんだのは "genau" という言葉。「正確」と訳すと少しニュアンスが違う。きっちりちゃんとして目が詰まっている感じ。そしてもうひとつ印象的だったのは、「音のないところ」にとてもこだわっていること。この曲にはしばしば、ひそやかな気配だけで音楽が進行していくところがある。それはちょうど、しんと静まり返った森の中で、なにか神聖なものの存在を感じたりするような感覚だ。そうした弱音の部分を、チョンは意識的に緊張感をもって響かせていたように思う。第1楽章の弱音の部分では、寝ている人のスースーといういびきがホール内に響くほどだった。見事なトロンボーン・ソロもこの感覚と調和していて、素晴らしい出来ばえ。

私は3階で聴いていたのだけれど、第3楽章のポストホルン(楽器はたぶんコルネット)はこれまで聴いた実演の中では最も遠くから聴こえてきた(2階通路奥で吹いていたらしい)。かなり遠い響きだったので、おそらく「遠すぎる」と感じた人もいたのではないか。しかしこれもおそらく弱音の演出のひとつで、単なる夢幻的なニュアンス以上のもの、はるか昔の遠い追憶(もう失われてしまった時間)を呼びおこすものであるように感じられた。

アルトの藤村さんが第4楽章で聴かせた深みのある歌唱は、この「夜の歌」のイメージをこの上なく巧みに表現したもの。そしてそれと響きあう最終楽章は、かなりテンポを落としてゆっくりと包み込むような感じだった。転調するたびに、天上から差してくる光がやわらかくうつろう。そしてクライマックスではティンパニ4台(下手に置かれていて、いつ使うんだろうと思っていた)という特別演出あり。さすがにエンディングはためて振るのでタイミングはわずかにずれてしまうが、音量と視覚的効果を最優先にした選択で、私は面白かったと思う。今日は拍手もブラヴォーもちゃんと棒が下ろされてからで、本当に好きな人たちが集まっているんだなあ、ということが伝わってきた。雪のおかげかな。

さて、この曲の実演では独唱者と女声合唱と児童合唱がどのタイミングでステージに入るのかがいつも気になるのだが、昨日は女声合唱だけ最初から座っていて、第3楽章の最後でまずゆっくりと独唱者が入ってきて、続いて児童合唱が急いで入ってくるというパターン。印象としてはちょっと慌ただしい。また最終楽章に入る前に着席の時間をとったので、スコアの指示通り Folgt ohne Unterbrechtung ではなかった。ここはやはりアタッカでいった方がいい。しかしともかく、音楽的に考え抜かれた感動的なマーラー3番だったと思う。一夜明けてすぐにいろいろブログ記事が出てきているので、聴いた人はそれぞれに強い印象を受けたのだろう。チョンのマーラーはもう何度か聴いているけれど、そんなにハズレがない。

<今日のいけしょう>
第4オーボエ奏者(イングリッシュ・ホルン持ち替え)として出演。そんなにイングリッシュ・ホルンのソロがたくさんある曲ではないけれど、決めどころはパーフェクトに決めてくるのがやっぱりいけしょうです。

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ファンタスティーク

K10040553031N響定期2月Aプロの初日を聴く(2月5日)。指揮はチョン・ミュンフン。

ジュリアン・ラクリンの独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。オケの作りは雄大な感じ。ラクリンの実演は初めてだが、美音派だ。ただ、ヴィブラートのかけ方は僕の好みとは少し違う。このタイプの速いヴィブラートは、僕には線が細く神経質に聴こえてしまう。でもこういうのを瑞々しいと感じる人もいるから、完全に好みの問題だ。また第1楽章は音程がわずかにフラットであるように感じたが、調弦し直した後の第2楽章からは気にならなかった。カデンツァはクライスラー。

他の人の記事を見ると、2日目のラクリンはアンコールでバッハの無伴奏を弾いたらしいが、初日は何もなし。

後プロはチョンの十八番であるベルリオーズの幻想交響曲。第1楽章から情熱的にガンガンいくタイプの演奏だが、N響はどんなに熱くなっても決して乱れない。第2楽章のコルネットはなし、ハープはやっぱり2台。第3楽章は完全にいけしょうが持っていく。第4楽章、第5楽章も情熱が迸るけれど合奏は実に緻密で、このあたりがN響の美点だ。聴き終わって充実感のある名演で、拍手も大きかった。

<今日のいけしょう>
「幻想」でコール・アングレ奏者として登場。第3楽章はおいしい。

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マリンはヘンだと思いませんか?(意見求ム)

192_480x7201イオン・マリンが振ったN響の1月C定期(初日の14日)を聴きました。マリンは日本ではまだ一般的な知名度は高くないですが、ルーマニア出身でオーストリアを拠点に活躍してきた中堅の実力派指揮者。なかなかのイケメンでもあります。今回のプロは、去年5月に大フィルの定期に登場した時のプロとまったく同じ。私はその頃ちょうど大阪にいましたが、残念ながらその演奏会は聴いていません。

まずは「ハゲ山」。「一部原典版使用」とプログラムに書いてあったのは、大フィルを聴いた人からの情報通り、リムスキー=コルサコフ版の「鐘」以降(381小節以降)をカットして、1867年原典版のエンディング(おそらく練習番号16の1小節前から)をくっつけたもの。マリンは去年のベルリン・フィルのヴァルトビューネでもこの版でやっていたそうですから、もはや「マリン版」と呼ぶべきかもしれません。私は初めて聴きましたが、予想通りかなり強引な編曲です。そもそも原典版とリムスキー=コルサコフ版は素材的には共通しているものの、まったく別の曲と考えた方がいいぐらい違うものです。どういう意図かわかりませんが、それを無理矢理一緒にしているので、まさに「木に竹を継いだ」という印象。しかしながらマリンは、単なる思い付きではないんだ!とばかり、物凄く真剣に思いを込めてこの版を演奏しているので、その気迫に押されて「ナ、ナンダカよくわからないがとりあえず聴いてみよう」という気になってしまいます。そしてN響は高い合奏力と表現力で、この非常に鳴りにくいオリジナルのオーケストレーションを見事にこなしてしまうのでした。最後まで聴いても編曲の意図はよくわからないのですが、思いは伝わりました。

次の「クープランの墓」でさらに驚愕。オーボエがどのくらい速いテンポで「前奏曲」を始めるのかを待ち構えていたら、なんと茂木サンは聴いたことがないくらい遅いテンポで吹き出したのです。しかもやたら遅いだけでなく、随所でルバートをかけてテンポを動かす超個性的な解釈。クラヴサンによる優雅な演奏ではなくて、モダン・ピアノによる超ロマンチックな「クープランの墓」という感じでしょうか。この曲としては弦のプルトが多い(16型)こともその印象を強めます。この曲はフランス古典音楽へのオマージュとして、ロマン派的な表情づけを排して演奏されるのが通例だけに、、一体マリンは何がやりたいんだ!?とまたしても頭を抱えてしまいました。しかしこれがまた奇を衒ったという感じでもなく、真剣に「これがいいんだ!」と感じ入ってやっているのです。弦の響かせ方は実に美しいし、管のニュアンスも見事。スタイルはどうみても場違いですが、演奏はなかなか聴かせます。「フォルラーヌ」「メヌエット」とそんな感じでやって、「リゴードン」でようやく普通になったかな?と思っていたら、エンディングの強烈な音伸ばし…やられました。うーんわからん。

後プロは「展覧会の絵」。この曲はさすがにどんな味付けでも楽しめる曲なので、各プレーヤーの名人芸を堪能しながら楽しく聴かせてもらいました。全体的な特徴としては、プロムナードの独特のフレージングや、「ビドロ」のコントロール、「キエフの大門」でぼんやりと靄の中から門が出現してくる感じなど、ムソルグスキーの原曲のイメージを汲んだ解釈と言えます。それにしてもその「大門」のテンポの遅いこと遅いこと。拍のアタマをあまりにもタメるので、ティンパニと大太鼓の打撃タイミングがしばしばずれてしまいます。本当にこれをやられるとオケは大変。でも、この超スローなテンポでも間延びせず、充実した分厚い響きを作り出すN響はやっぱり凄いと思います。で、やっぱり頭に浮かんだのはマリンと同じくルーマニア出身の巨匠、チェリビダッケの超スローな「大門」でした。マリンもチェリビダッケ同様、最後の大太鼓をヘミオラで打たせていたし、この曲に関してはチェリビダッケの解釈をかなり意識しているんではないかと思います。

一言でいえばマリンはかなりヘンです。しかも、なんでこんなヘンな考えにたどりついたのか、その論理が聴いていてさっぱりわかりません。単に思い付きだったり、奇を衒っているのであれば、その底の浅さはすぐに分かるのですが、本人は実に真剣にやっているようです。そして、出てくる音楽はなかなか素晴らしいのです。単に面白がればいいのかもしれませんが、私などはなんでこうなってるんだということがわからないと、なんだかとっても気持ち悪いんですね・・・。ちょっと評価の難しい人です。みなさんの意見をききたいので、もしマリン体験者がこのブログをお読みになったら、ぜひコメントを下さい。

<おまけ:今日のいけしょう>
「ハゲ山」と「展覧会」でセカンドでした。「クープラン」は降り番。ちょっと見せ場少なし。

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「ラプソディー・イン・ブルー」についてのノート(番外編)

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Michel Camilo (p) Ernest Martinez Izquierdo / Barcelona Symphony Orchestra (L'Auditori, Barcelona, Spain, February 2-4, 2005)


このブログへのアクセスを見ていると、意外と「ラプソディ・イン・ブルー」がらみで検索してこられる方がいらっしゃいますね。ご訪問ありがとうございます。だいぶ前に書いた記事で、様々な版の成り立ちとそれらの違い、ならびに「オリジナル版」や「フル・オーケストラ版」の演奏における慣習的なカットについての考察を行ったので、そちらをご覧になっているのでしょう。ポピュラー名曲なのに意外と知られていない情報なので、何かの参考になれば幸いです。

さて、そのときガーシュイン自身の録音のひとつについて「ミッシェル・カミロもびっくり」と書きましたが、不勉強なもので、そのときすでにカミロの録音があったのを知りませんでした。先日、偶然発見して聴きましたが、これは凄くいいです。

1946年の「フル・オーケストラ版」、しかもノー・カットの演奏です。冒頭のクラリネット・ソロに象徴されるように、オケにブルージーな感覚がたっぷり注入されているところが面白いのですが、やっぱり聴きものはカミロのソロ。ジュリアードで勉強していただけあって、クラシック界の名だたるピアニストと比較しても全く遜色のないテクニックと音色です。それだけでなく、この曲には絶対に欠かせない柔軟なリズム感覚があり、これに関してはプレヴィンやバーンスタインもかなわないでしょう。それがよくわかるのは曲中に何度も登場するカデンツァのようなソロの部分で、カミロはときにはビートをシャッフルさせ、装飾音も入れながらスピーディーな演奏を展開していきます。これがバーンスタインみたいに野暮ったく聴こえないのは、カミロのセンスが素晴らしいからに他なりません。そしてラテン風のフレーズを繰り出すときのエキサイティングな感覚はまさに天下一品。この曲が「20年代ジャズの要素を取り入れたクラシック」なのではなく、「20年代ジャズとクラシックの中間的な作品」であることをはっきりと認識させてくれる素晴らしい演奏です。

このディスクにはへ調のコンチェルトも入っていて、これがまた目の覚めるような演奏。うーん、これを聴いてしまうと、もうクラシック・ピアニストのガーシュインは聴けなくなってしまうかもしれない。CDショップでは、このディスクは「ジャズ」のところに置いてあるのでご注意ください。クラシックの評論家の人はちゃんとこういうのも聴いてね。

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Dutoit (2)

Img025ちょっと前のこと。12月のN響B定期がデュトワとエマールの共演だったので申し込もうとしたら、すでに売り切れでした。しかし横浜定期が同プログラムでまだ空きがあったので、横浜で観ることに。要はB定期の3ステージ目のようなものです。12月18日、みなとみらいホール。

前プロがその共演で、ラヴェルのト長調のコンチェルト。先日エマール氏自身の録音がリリースされましたが、そこでの盟友ブーレーズとの共演は完全に新古典派的解釈で、第2楽章などもほとんどテンポを揺らさず、両端楽章も過度なジャズ色や民族音楽色を強調しないものでした。 さて実演はどうか?確かに過度な味付けはないものの、エマール氏は録音よりもはるかに感情を込め、適度にテンポを揺らしながら弾いていました。改めて書くほどのことではないけれども、本当に音がきれい。柔らかくてキラキラしてクリア。聴いていて本当に幸せになれました。デュトワも包み込むような温かさと色彩感があり、N響メンバーの好演もあって素晴らしい出来だったと思います(特にイングリッシュホルン、素晴らしい)。ところで、この曲はなぜかこのところ東京での実演が相次いでいて、11月28日のアルゲリッチ(アルミンク/新日フィル)、翌日29日のロジェ(高関/N響)といずれも世界的な名手による贅沢な演奏でした。私は他の2つは行けなかったのですが、おそらく3つとも聴いた方は大勢いらっしゃることでしょう。ぜひ聴き比べての感想を教えて頂きたいものです。

盛大な拍手に応えて再登場したエマール氏は、しれっとした顔でブーレーズのノタシオンをバリバリっと弾いていかれたのでした。凄いねこの人。

後プロはショスタコーヴィチの交響曲第8番。ムラヴィンスキーに代表されるような厳しい演奏のイメージが強い曲ですが、デュトワは音色の美しさに焦点を当てているようです。N響の精密な弦楽合奏の魅力が強く感じられました。大爆発の部分でも、しっとりとした爆発(変な表現ですが)という感じ。そして、やっぱりイングリッシュホルンが素晴らしい。この音色を持っている人はそうはいないと思います。

たぶん、これが今年のデュトワとN響の最後の演奏会だと思うのですが、聴衆の温かい拍手にデュトワ氏も嬉しそうでした。やっぱりクラシックは実演に勝るものはなし。

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Dutoit (1)

N響の12月定期Aプロの初日を聴く(12月4日)。指揮はデュトワ。
前半は今年のショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワの独奏によるショパンのピアノ協奏曲1番。ユーラは1985年生まれということだから、まだ24、5歳か。かなりの長身で、すらっとした黒のパンツスタイルで登場。タッチはクリアで力強く、随所で印象的なルバートを多用しながらロマンチックに弾く。だが、音楽に耽溺している感じはなくて、むしろサバサバと醒めて俯瞰している印象。若干の弾き飛ばしも含めて余裕綽綽。デュトワの付けは弦楽器の響かせ方をはじめ凄く巧い。ふーん。まだ「面白い」と言える演奏ではないと思うが、将来のスターのデビューに立ち会っているのかもしれないと考えると楽しい。第1楽章の後半で(しかも弱音を聴かせているところだった)、誰かの着うたがけたたましく鳴ったのには驚いた。やれやれ。アンコールはマズルカ。

この日のNHKホールは満員で当日券なし。

後半はストラヴィンスキーの「うぐいすの歌」から。あまり実演の記憶がないが、デュトワらしい色彩感とリズムのキレが際立った素晴らしい演奏。複雑な音響が無秩序に交錯する、いかにもストラヴィンスキーらしいスコアを魅力的に響かせていた。そしてドビュッシーの「海」。デュトワの棒でこの曲の実演を聴くのは初めて。もっとざんぶりざんぶり鳴らすのかと思ったら、そこまでではなかった。しかし演奏は緻密でクリア。モントリオール響との録音と同じく、純音楽的なニュアンスよりも、色彩的で描写的な表現をめざしたもので、N響の高い技術と相まって実に達者な演奏だった。ただ、なんとなく予定調和のような大味な印象があったようにも思う。これはたぶん僕の問題。ちょっとデュトワの「海」に期待しすぎていたのだ。

おまけ情報。やはり、第3曲におけるトランペットとホルンの「合いの手」フレーズは「あり」で演奏されていた。

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復活

シュテンツ&N響でマーラーの「復活」を聴く(11月12日)。ヴァイオリンは対向配置、ティンパニ&パーカッションも左右に分かれる。冒頭からひきずっていくようなフレージング、リタルダンドするところでは思いっきりためる、ドラマチックな演奏。鳴らすところは思いっきり鳴らし(NHKホール3階の席がフォルテシモで振動するのを感じたのは初めて)、抑えるところはぐっと抑えて弦の弱音の美しい響きを聴かせるなど、シュテンツはなかなかの演出巧者。その意図に十分応えているN響も、技術的なレヴェルが高い。

もちろん、こういう演奏を「あざとい」と思ってしまう向きはあるだろう。しかし、そもそもこの曲自体がそういうケレン味や音響的実験性を志向しているので、こういう解釈は決して間違っていないと私は思う。たとえキリスト教の信仰がない聴き手にも、最後には強いカタルシスを感じさせるように作られているのがこの曲だ。僕がこの曲を聴くときは「音楽の力でもっていってほしい」と思って積極的に身を委ねるので、最後のクライマックスではいつも目頭が熱くなる。そういう聴き方をしないと楽しくない曲だ。というか、音楽ってそういうものではないか?

クラシック・ファンが大好きな、指揮者がどうのとか、オケがどうのとかいう蘊蓄は、最近の僕にはもうどうでもいい。そういうおしゃべりは楽しいけれど、つまるところ「良い趣味」の誇示であり、知識のひけらかしに過ぎない。そうではなくて、ひとつひとつの演奏会に「良い音楽」を求め、そのためにはスコアも読んで勉強していき、積極的に音に向き合って心で感じ取ろうと努力すること。そして何を感じたかを言葉にすること。大事なのはそれだけだ。

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若いけど昔ながらのロシアオケ

Bashmet美人ヴァイオリニスト・シリーズ第4弾は、諏訪内晶子さんです。文句なしの美人。映像では何度も見ていますが、実演は今回が初めて。彼女の演奏については、人によってだいぶ評価が分かれるので、自分の耳で確かめてみようと思いました。

2010年5月9日 神戸文化ホール

ショスタコーヴィチ: 祝典序曲 Op.96
ショスタコーヴィチ: ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 Op.77
チャイコフスキー: 交響曲第5番 ホ短調 作品64

ユーリ・バシュメト指揮 国立ノーヴァヤ・ロシア交響楽団
ヴァイオリン:諏訪内晶子(使用楽器:1714年製ストラディヴァリウス「ドルフィン」)


かつて「新ロシア交響楽団」と邦訳されていた「ノーヴァヤ・ロシア」、どんなオケかと思っていたら祝典序曲が始まってビックリ。細かいとこはどーでもいい、とにかくヤルのだ!とばかりに鳴らしまくる、昔ながらの典型的なロシア・オケでした。管打が鳴らすこと鳴らすこと。それに負けずに弦セクションもフル・ヴォリュームで鳴らしまくる。のっけからの爆演に呆れつつ苦笑。

さて、お目当てのコンチェルト。
諏訪内嬢は淡いヴァイオレットのスレンダーなドレスで登場。背も高いし、モデルのようなスタイルの良さです。第1楽章は凄くゆっくりとしたテンポで開始。バシュメトは低弦を繊細に扱います。ソロはさすが「ドルフィン」とため息をつきたくなる美しい音色。決して冷たいものではなく、つややかで美しいという印象です。最近の女性ヴァイオリニストがこの曲をやるときにありがちな甘ったるい感じは皆無で、それは良かったのですが、願わくばもっと厳しさがほしい。この「ノクターン」の「夜」の意味は非常に深いのです。諧謔的な第2楽章ではテンポを落としすぎる指揮者が多いのですが、バシュメトはさすがにそれはしません。ソロは意図的に荒々しく弾き始め、切れ味鋭く好調です。オケの爆演傾向も良い方向に作用して、この演奏悪くないかも、と思ったのですが・・・。第3楽章にヌルっと入ってしまいました。ここで演奏が一気に弛緩。このパッサカリアは「悲劇的な運命=歴史」を表すものとして、ひとつひとつの変奏をドラマティックに描き分ける必要があるのですが、ただただ重苦しいだけでかなり退屈(第3変奏ぐらいで睡魔が襲ってきました)。後半の重量級のカデンツァで諏訪内嬢はだいぶ健闘していましたが、中ほどのデタシェの部分(184小節からのところ)など緊張感が持続していないところがあると僕は感じました。オイストラフも語っているように、このカデンツァはかなり計算してもっていかないといけないのです。第4楽章でもバシュメトがテンポをゆるめないのはさすが。オケはちょっとミスが目立ちます。ソロはほとんどヴィルトゥオーソ・コンチェルトのように弾いているので、やや非ショスタコーヴィチ的でした。総合的に見ると、非常に美しい音色と高い技術力で演奏されたコンチェルトではありましたが、諏訪内晶子ならではの「何か」があったのか、というところには疑問が残ります。こういう曲は「噛み砕けない何か」「消化できない何か」がリスナーの中に残らないと成功とはいえないと思うのですが、そういうものは感じられなかった。あまりにも滑らかにするっといってしまっているのが物足りないのです。僕の初ナマ諏訪内の感想はそんな感じでした。難しいですね、この曲は。

休憩を挟んでのメイン・プロはチャイコの5番。これはもう「爆演」以外の何物でもありませんでした。細部はロシア的に非常にアバウトで、オチるは、出遅れるは・・・という感じなれど、音量とノリはしっかりキープ。西欧的洗練というものとはほど遠い、ほとんど演歌のようなチャイコフスキーでした。ブラヴォーとか飛んでましたが、こういうのは褒めていい演奏なんだろうか。わかりません。

アンコールは2曲。

ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
オリヴェイラ:ティコ・ティコ


「ワタシたち、こんなのもできるんですよ」というショーケース的アンコールでしょう。「ティコ・ティコ」が始まったときはチャーリー・パーカーを思い出してしまいましたが、ビートルズ好きで知られるバシュメトはパーカーもお好きなんでしょうか。

会場を出たところに、楽団員用の大型バスが3台停車していました。今回の来日ツアーは15日の長野までとてもハードなスケジュールのようですから、バシュメトもオケの皆さんも、くれぐれも体には気をつけて、日本滞在をエンジョイしてもらいたいものです。スパシーバ。

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