音楽を言葉で表現するために

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書

このブログというスペースで、僕は音楽を聴いた感想(など)について文章を書いている。ブログにする前から自分用のメモとしては書いていたのだが、それを書き始めた理由は、音楽によって生じた微かな心の動きを忘却の彼方に置き去りにしてしまうことなく、言葉として定着させることで曖昧な印象を確かなものにし、記録として残しておきたいと思ったからだった。インターネット上のブログにしようと思ったのは、コンサートなどの共時的な「いま‐ここ」体験をインターネット上で共有することができるということがわかったからだ。また、いちおう読む人を想定して書くことによって、自分の記述に一定の客観性や緊張感がもたらされるという効果も期待していた。まあ実際にやってみてわかったのは、ブログを書くなどということは暗黒の虚空に向かって空しく吠えるようなもので、読み手などというのは存在しないも同然ということだったのだが。

しかし実際に書いてみて思ったのは、音楽について誠実に書こうとすることはやはりそれなりの技術や方法論を必要とするということだった。いろいろな書き方を試してみたし、うまくいったこともあればそうでないこともある。今でもどのように書けば良いのかわからないし、音楽について書くことはしばしば非常に悩ましい。文章のプロではないので気楽なものなのだが、プロでないからこそ真剣に時間をかけて探究できるという側面もある。僕がいつも考えるのは、よりよく書くためにはよりよく聴かなくてはいけないし、よりよく聴くためにはその音楽についてより深く学ばないといけないということだ。その学びに終わりはないが、深く学んだ上で書かれた文章には、人を納得させられるだけの説得力があることが多い。あと、抽象論はやめようということもある。音楽から受けた抽象的なイメージを自分なりの言語イメージに変換していくことは大事なのだが、わかったようなわからないような一般論や抽象論に入っていった瞬間に、音楽を語る言葉は無様に死んでいく。要は、音楽が自分の心に与えた作用を外から眺めて、いったん解体して、言葉として組み立て直さないといけないのだが、これは決して簡単なことではない。もちろんそれと同時に、その音楽についての一定の知識を踏まえていなければいけないということもある。

こういう問題意識を持った人間にとっては、この本は非常に啓発的だった。どのようにしたら「よりよく聴く」ことができるのか、そしてそれを言葉として他者と共有することができるのか、ということが著者の問題意識となっている。社会の至る所で音楽が溢れかえっているにもかかわらず、いやあるいはそれだからこそ、音楽を「聴く」ことはどんどん難しくなっているように思われる。しかしそれでも音楽は人の心を確実に打つ。音楽の力を信じる音楽好きの人たちのために、語りにくいテーマをじっくり考えながら言葉にした労作だと思う。

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再発見される「中国の時代」

1421―中国が新大陸を発見した年 (ヴィレッジブックス)
ギャヴィン・メンジーズ(松本剛史訳)
「1421 中国が新大陸を発見した年」ソニーマガジンズ


ずっと前、たぶん出版されてすぐ買った本なのだが、長らく放置していて、ようやく読んだ。だから本当はこの文庫版ではなくハードカバーで読んだ。しかし、もうハードカバーは絶版らしくてアフィリエイトの画像がない。もしかしたら文庫版には新しい情報が追加されたりしているかもしれないが、それはわからない。

タイトルの通り、鄭和艦隊の第6回航海のときにその艦隊が様々なグループに分かれて世界を探検しつくしていたという話。著者は歴史学者ではなく、英国海軍で潜水艦の艦長までつとめた人物だというところが面白い。大航海時代以前の世界地図、世界各地に残る伝承や遺跡などから、明時代の中国がヨーロッパ人以前に世界を探索しつくしていたという説を唱えている。著者はこの本の刊行後もインターネットで追加情報を公開しつつ自説を展開、新刊も出ているらしい。

大航海時代のヨーロッパ人が初めて世界を「発見」したわけではないというのはもはや常識だろう。それ以前に中国人による「大航海時代」があったいう指摘も別に新説ではないが、ここまで大規模なものだったという壮大なストーリーは斬新で、読み応えのあるものだ。しかしながら、それをすべて鄭和艦隊に帰する本書の議論にも少々無理なところがあるように思える。ヨーロッパ中心主義的な世界史の記述では無視されてきた「中国の大航海時代」の痕跡が世界中に残されている、というのが正しい理解だろう。著者が傍証として挙げる様々な証拠の中にはかなり強引なものもあり、すべてがこの通りに受け取れるわけではない。訳注で控えめに指摘されているように、多くの史料が孫引きのため誤って理解されている部分も多い。アカデミックな立場からすれば、読み物としては面白いけれど、学問的な裏づけはない、と一蹴されてしまうかもしれない。本書の内容は、多少割り引いて考えなければならないものであるのも事実だ。

しかし前述したように、実際に世界の海を航海した経験者ならではの大胆な発想は、すでに部分的には知られていたこの「中国の大航海時代」の規模をさらに拡大して考えることができるのではないか、と思わせるだけの説得力がある。その意味で、今後の著者の研究がどのように展開していくのかを知りたいと思わせる(インターネット上のサイトと連動しているのが現代らしいところ)。本としては、様々な古世界地図と世界中の地名が出てくるだけに、もっと図版や図による解説が丁寧でもよかったかもしれないと思った。

それにしてもやはり大きなポイントは、多くの人がすでに指摘している通り、中国が国際的に発言力をどんどん増している中で、ヨーロッパの側からこういう本が出てきたということだろう。この本で書かれていることが歴史的事実であるかどうかということとは全く無関係に、この本がいま出版され、世界中で読まれているということは、まさに時代の象徴であると思う。

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作家にとっての「現実と虚構」

IN
桐野夏生「IN」集英社

出世作「OUT」に対応するかのようなタイトルを持った、桐野夏生の新刊。とは言っても内容として「OUT」の続編になっているわけではなく、まったく別の物語である。しかし著者本人が語っているように、「OUT」で世に「出た」著者の今の思いが「IN」なのだろう。自分自身に向かうこと、作家という人間の内面に入っていくこと。

複雑な構造を持った小説である。中年の人気女性作家・タマキは「淫」という小説を書くために、すでに故人となった作家・緑川未来男が昭和48年に上梓した「無垢人」という私小説の背景について取材を進めている。小説内小説として登場する「無垢人」は、緑川自身をモデルにした「私」と浮気相手「O子」、実在の妻「千代子」の凄絶な三角関係を赤裸々に描いた作品である。小説内で重要な役割を担いながらも、その名前すら明らかにされない「O子」とはいったい誰なのか。タマキはその謎に迫るうちに、緑川の複雑な女性関係の渦の中に入り込んでいく。しかしその取材の最中もタマキの頭を離れないのは、つい先日別れた不倫相手、青司のことだ。青司とタマキは名物編集者と担当作家という関係として、互いに家族がある身でありながら公然と不倫関係を結んでいた。その激しい愛憎の記憶が、タマキの中で取材内容とオーバーラップしながら回想されていく。そして取材が核心に迫っていったとき、タマキのもとに突然青司についての知らせがもたらされる・・・。

描かれているのは社会的に許されない激しい恋愛体験であり、身も心もボロボロになってもやめられない、腐臭を放つようなドロドロの愛憎が「生きる」ということの本質に深くかかわっているということだ。多少なりとも同じような体験をしたことのある人間であれば、強く共感できる描写に溢れている。その意味で本書は非常にエモーショナルな作品だ。だがこの作品の本質的なテーマは、作家にとっての現実と虚構という問題である。緑川の「無垢人」は私小説、すなわち現実の緑川の生活をモデルにした小説と考えられているが、謎の「O子」の正体を探るうちに、小説に書かれたことのどこまでが現実でどこからが虚構なのか、タマキにも読者にもわからなくなっていく。そしてこの「作家が書いたものは事実とは限らない」というテーマは、物語終盤でタマキが千代子から一通の手紙を渡されることで大きくクローズアップされる。これがこの物語の謎を解き明かす真実であるのかと思いきや、果たしてこの手紙自体が本物であるのかどうか、読者はさらなる疑念に包まれることになるのだ。そしてその読者の疑念は、夫の死後作家となった千代子が、夫の遺した日記を書き直し続けているという衝撃的なラストによってさらに深められ、読者は様々な憶測を抱えたまま藪の中に取り残されてしまう。

この現実と虚構のテーマは、さらにメタレベルでも展開している。緑川未来男の「無垢人」という小説内小説は島尾敏雄の「死の棘」がモデルであり、千代子とは島尾ミホのことだろうということは誰でも想像がつく。そして桐野夏生がその取材をしていたことも熱心なファンなら当然知っているから、読者は必然的にタマキという主人公を桐野と重ねながら読んでいくことになる。だから、描かれた不倫体験は桐野の現実の体験に基づいているのか、それとも全くの虚構なのか、読みながら思わず考えてしまう仕掛けになっているというわけだ(雑誌連載中はなかなかスリリングな読書体験だったことだろう)。いくら著者が「私小説は書かない」と宣言したところで、その宣言すらひとつの戦略であるように思えてきてしまう。様々なレヴェルで現実と虚構についての「裏読み」を読者に求めてくる、非常に知的なたくらみに満ちた小説でもあるといえよう。さらに一歩進んだ桐野ワールドを堪能できる秀作だと思う。面白い。

ところで、私は前作の「女神記」をあまり評価していないのだが、本作を読んであれが「死の棘」の取材の影響下に書かれたものであると気づいて、なんだかとても納得した。改めて「死の棘」を読み返してみたら、「トシオ」の浮気に対する「ミホ」の異様な執着には、奄美の祭事を司る「ノロ」の家系に生まれ、巫女を継承するはずだった島尾ミホさんの神秘的なパーソナリティが強く反映されている。それが「古事記」のパラフレーズである「女神記」の発想の原点となっていることは明白だ。桐野作品としてはやはり今作のように現実の人間を細かく描き込んでいく方がはるかに面白いと思うが、「女神記」の基本的なモチーフが「死の棘」におけるトシオとミホの関係にあるとわかると、あの作品を読み解けた感じがした。それにしても「死の棘」は不思議な小説だな。

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「1Q84」を読む

1Q84 BOOK 1 1Q84 BOOK 2
村上春樹「1Q84」(BOOK 1 & BOOK 2)新潮社

「アフターダーク」以来およそ5年ぶりとなる、村上春樹の長編新作(書き下ろし)。

物語構造 ‐ 「海辺のカフカ」との類似

一読して感じたのは、この物語が村上の近作長編「海辺のカフカ」「アフターダーク」といった村上の長編近作と類似した構造を持っているということだ。とくに「海辺のカフカ」とは次のような大きな共通点がある。

1)ふたつの物語が交互に進行する。最初はお互いに無関係のように物語は進行するが、やがて両者は接近していき、最後にはひとつの物語になる。これは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」以来、村上がしばしば用いる手法である。
2)それぞれの物語の主人公は、象徴的なレヴェルにおける「敵」と戦い、勝利を収める。しかしその代償として、ひとりの主人公は現実の世界で死を迎える。

主題として暴力を扱っていることも含め、「1Q84」は「海辺のカフカ」と非常によく似ている。おそらく村上はふたつの小説で同じようなことを言おうとしているのだ。しかし、ひとつだけ大きな違いがある。「海辺のカフカ」では、現実の世界の秩序が回復されることによって物語は収束していくのだが、「1Q84」では世界は変質した「新しい世界」のままで終わるのだ。物語の中で語られたいくつかの謎が未解決であることもあわせて、読み手は何とも言えない不安定な気持ちのままで放り出される。音楽でいえば、トニックがもたらされない感覚といえるだろうか。ここから、「この物語には続編があるのではないか(BOOK 3?)」という感想を抱く人が多いようだ。実際どうなのかは作者しか知り得ないことだが、私としてはこの小説はここで一応終わっていると考える。それはなぜか。この不安定なエンディングの感覚が、前作「アフターダーク」とよく似ているからだ。

「アフターダーク」は非常に実験的な小説である。映画のカメラのような視点の取り方もさることながら、物語の中で出て来た謎が何一つ解決されることなく、さらに何かが新しく始まろうとしているときに唐突に小説は終わってしまう。この「物語が終わらないうちに小説が終わる」というエンディングのかたちが、「1Q84」でも採用されていると私は考える。このエンディングが示していることは何だろうか。「物語が終止せず続いていく感覚」、それは、「ここから先の物語は、読み手が現実の世界で作り上げていってほしい」ということだと私は考える。私たちが生きる現実の世界も、常に新しく作られていく物語である。主人公がこの先に生きていく「新しい世界」は、小説を読み終わった後の読み手が生きる世界でもある。小説を読むことが現実からの逃避ではなく、現実に何らかをフィードバックする行為であってほしいという村上の思いが、この不安定なエンディングには込められているのではないだろうか。実はそのような思いは「海辺のカフカ」にも込められている。「海辺のカフカ」の最後の1行は、

そして君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている。

と書かれている。そして「1Q84」の最終章には、

これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は思った。(・・・)たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。

という言葉がある。ふたつの作品が到達する地点は極めて近い。ただ、「海辺のカフカ」は比較的伝統的な物語の力学に従って書かれているのに対して、「1Q84」はより現実の世界へのリファレンスが強いと言えるだろう。

主題 ‐ 現代社会における「信仰」と「セックス」

村上春樹の作風は「ねじまき鳥クロニクル」以降、大きく変化した。翻訳調の文体でシュールな物語が展開する初期の「ムラカミ・ワールド」から、より簡素な文体で日本社会の現実を描き出す近年の作風へ。それはしばしば「デタッチメント」から「コミットメント」への変化として語られ、そのきっかけとして地下鉄サリン事件を題材としたルポルタージュ「アンダーグラウンド」の執筆があったことはよく知られている。「1Q84」の主題は「カルト」と「性暴力」であり、「アンダーグラウンド」以来の「なぜ私たちの社会はオウムを生み出してしまったのか?」という問題意識が村上の中で発展的に継続して生まれたものといえるだろう。

「カルト」と「性暴力」という現象は、人間存在に深く関わっている「信仰」と「」セックス」という行為が、現代社会の中でねじれてしまったものだと考えることができる。現代においてはもはや「信仰」は青豆の意味を失ったお祈りぐらいの意味しかもたないし、「セックス」は愛を伴わないストレス解消の行為でしかない(天吾の年上の既婚者との不倫や、青豆の中年男ハンティングのように)。この倒錯した現代社会において、私たちはどのようにすれば「より良く」生きていくことができるのだろうか?それがこの小説で村上が描いていることだ。

この問題を小説として語る上で村上が重要な役割を与えているのが、「リトル・ピープル」という象徴的レヴェルの存在である(もちろんこれは、ジョージ・オーウェルの「1984」における「ビッグ・ブラザー」のパロディ以外の何物でもない)。それは現代社会の歪みを背後から操っているが、邪悪というよりも「中立的」な存在として描かれている。いったい「リトル・ピープル」とは何者なのだろうか?当然のことながら、現実のカルトや性暴力は、ひとつの原因を悪として抹殺することで解決するような問題ではない。それは「リーダー」を殺害しても「リトル・ピープル」がいなくなるわけではないという物語が示す通りだ。麻原彰晃=松本智津夫が死刑になっても、私たちの社会に巣食っている「オウム的な精神」が消え去ることはない。村上が「リトル・ピープル」という存在を通して描こうとしているのは、「カルト」や「性暴力」の種を今の私たちの社会の成り立ちそのものが内包しているということに他ならない。そういう意味で、「リトル・ピープル」とは「システム」であると言い換えることもできるだろう。外部に屹立する「ビッグ・ブラザー」ではなく、内部で増殖する「リトル・ピープル」たちの群れ。それは、私たちの中にあるもの(集合的無意識というタームを使うこともできるだろう)の現れである。暴力は連鎖し、私たちは死ぬまでそこから抜け出すことはできない。

しかし、村上はニヒリストの立場には立たない。確かに、私たちはもうリトル・ピープルのいない「1984」には戻れない。「リーダー」が死ぬ間際に呟くように、「その世界はもうない」。気がつけば月はふたつ出ていて、私たちは問題だらけの「1Q84」の中で生きていくしかないのだ。しかし村上は、「愛」という希望があれば人間は生きていくことができる、という。

Without your love, it's a honkey-tonk parade.

しかしこの物語が非常に残酷で、非常に感動的であるのは、「愛」は永遠に満たされない希望として描かれているということだ。天吾と青豆は接近するが再会することはなく、天吾は青豆が自分のために死んだことを一生知ることはない。それでも天吾は青豆に再会するという(読み手には絶対叶わないとわかっている)希望を持っているからこそ、「1Q84」の世界で生きていくことができる。世界の絶望的な混沌を前にして現代人はどのように生きていくことができるのか、ここに村上のメッセージがある。

第三の物語 - 「空気さなぎ」、あるいは書き換えられた世界

もうひとつ、この小説において重要な役割を果たしているのが「空気さなぎ」という架空の小説中小説と、その作者である「ふかえり」(深田絵里子)である。天吾は「空気さなぎ」を書き直し、ふかえりと交流することで青豆につながっていく。いわばこれらは青豆の物語と天吾の物語を象徴的なレヴェルで媒介するチャンネルであり、「空気さなぎ」とは「もうひとつの物語」であるといえるだろう。ふかえりからは意図的に人間的な性格づけが排除されているが、それは彼女が現実世界と象徴的世界の媒介者、いわば巫女のような存在であることを意味している。天吾とふかえりの間の(象徴的な)セックス描写もまた、神と媒介する巫女の存在をイメージさせる。しかし、天吾が見た「空気さなぎ」の中の10歳の青豆の姿はいったい何を意味しているのだろうか。「2001年宇宙の旅」のラスト・シーンをも連想させるこの描写は非常に謎めいていて、リトル・ピープルの両義性を強く示唆するものだ。

この小説の中には、他にも複雑な意味の結びつきをもたらす細部やエピソードが詰め込まれている。たとえば青豆が睾丸を蹴るという描写は、天吾がガールフレンドの人妻に睾丸を愛撫される描写と対になっている。チェーホフの「サハリン島」の引用は、タマルの出自としてのサハリン島のエピソードに接続している。また天吾の父親がNHKの集金人だったという重要な設定は、さりげなく挿入された架空の新聞記事の内容とともに、NHKのETV問題 ‐ 戦時性暴力をテーマとした番組に一部の政治家が圧力を加えて番組が改変されたこと ‐ を連想させる。この小説の中ではNHKという記号は「私たちを現実世界と強固に結びつけるもの」という意味合いで用いられているように思う。このように物語の中に複雑に組み込まれた意味の乱反射を仔細に分析することはここではとてもできないが、これらの細部が物語に非常に豊かなニュアンスを与えている。そして、歴史認識をめぐる議論がこれに絡んでくる。

歴史とは集合的記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる。

あるいは「1Q84」とは、「歴史を書き換えられた世界」のことなのかもしれない。これもまた、ジョージ・オーウェルへのオマージュとして。

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私の祖父は皇軍兵士だった

皇軍兵士の日常生活 (講談社現代新書)
一ノ瀬俊也「皇軍兵士の日常生活」講談社現代新書

私の祖父は1945年、フィリピンのルソン島で戦死した。父がまた4歳のときだった。すでに祖母も父もこの世を去った今、祖父が実際にどのような状況で死を迎えたのかを知ることは難しい。祖母の遺品を調べればわかることもあるのかもしれないが、家庭の事情によって、私が祖母の遺品を簡単に見られるような状況にはない。私の手元にあるのは、父が死んだときに取り寄せた除籍簿に記されていた、簡潔な文言だけだ。

昭和弐拾年五月弐拾日時刻不明比島ルソン島山岳州ボンドワクで戦死

昔は祖父のことを考えることもあまりなかった。父自身に祖父の記憶がないので、それほど話題にのぼらなかったということもある。むしろ父の昔話は、戦後に母子家庭で苦労したことが中心だった。また祖母が積極的に祖父の話をしていたという記憶もない。いま思えば、祖母にとって祖父の死とは、自分の人生において最も触れたくないことのひとつだったのかもしれない。しかしいま、祖父が死を迎えた年齢をとうに過ぎて、私は祖父のことをしばしば考える。あなたはどんな思いで入営し、どんな軍隊生活を送り、どんな不安と恐れを抱きながら戦地に赴き、どんな風に死んでいったのか。おそらく孤独だったであろう死の瞬間に、あなたは自分の人生について何を思ったのか。

この著作を読むに当たっては、やはり祖父のことが頭を離れなかった。著者は史料を駆使して「皇軍兵士」が置かれた社会的状況を描き出していく。その意味では、タイトルにあるような「日常生活」を詳細に描いているというよりも、「皇軍兵士」という社会的存在を描き出しているという方が正しいだろう。「銃後」の家族についての論考があることもその意図に沿っている。タイトルからはもっと日常生活の詳細が知りたくなるところだが、それは数多く出版されている個別のモノグラフに直接あたってほしいということなのかもしれない。「戦争が社会を公平化した」という言説、あるいは「軍隊は公平なところだった」という俗説を否定することによって、昨今の徴兵制復活論を批判するという著者の意図はよく伝わる。個人的には、皇軍の秩序とは「勇怯」を相互監視することで成り立っていたという指摘に深く考えさせられた。いまでもありそうな組織ではないか。「『戦死の伝えられ方』をめぐって」も得るところが多かった。戦争末期の死者の死亡状況の真実など、その者が属していた軍隊という組織がなくなってしまえば、ほとんどわかるはずもないのだ。しかし、そのようなことが許されてよいものなのだろうか?自分の父が、子が、夫が、あるいは兄弟が、どのような状況で死を迎えたのか全くわからないということが?「戦争とはそういうものだ」というしたり顔の言説を、私は決して許すことはできない。私の祖父は戦争によって殺された。国家によって強制された死を美化しようとするあらゆる言説を、私は受け入れない。

「戦争の時代を考えるとき一番大切なのは、その時自分だったらどうしたかを思うことではないだろうか。それができていない発言や思考法がいまの日本にはあまりにも多い」という結びの言葉に共感する。著者は私と同年齢。今後の研究に期待したい。

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幻想の南極

雪男たちの国
ノーマン・ロック(柴田元幸訳)
「雪男たちの国 ジョージ・ベルデンの日誌より」河出書房新社

帯がいいですね。「目が覚めたら、私は南極にいた」。帯裏もいいですね。「凍った影、死者の音楽、残酷な詩、氷河に現れた赤い靴の女」。このフレーズのうちどれかはそのうち使ってみたくなること請け合い。

柴田氏の訳だと、どんな本でも何となく読んでみたいという誘惑に駆られるものですが、これもそんな誘惑に負けた一冊。偶然発見されたジョージ・ベルデンの日誌をもとにしているという文学的な仕掛けはともかく、ある朝起きたらスコットの探検隊の一員になっていたという設定は、読み手をぐっとひきつけてしまう魅力的なものです。文章は全編に詩的なイメージが満ち溢れていて、それがうっすらと靄のかかったような極地での精神状態を反映しているような感じなのですが・・・ん~、正直なところ物語としてはちょっと読みにくいです。語りの力ではなくて、詩的なイメージの連鎖で哲学的な含意を伝えていこうとするタイプの小説。この幻想的な世界に浸るのは楽しいけれど、読み終わったときに伝わるものは少ないのでは。これはちょっとインテリ向けの遊戯に終わっているかもしれない。

極北探検の話だったら、ジョン・フランクリンのことが僕はいつも頭から離れないな。その残酷なイメージが僕の心の中に貼りついている。

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アンデラーとは誰か

ブロデックの報告書
フィリップ・クローデル(高橋啓訳)「ブロデックの報告書」みすず書房

素晴らしく読み応えのある小説だった。場所は中欧のどこかの田舎の村、時代は第二次世界大戦直後、そこで起きた集団殺人の「報告書」を作るように村人たちから命じられた主人公ブロデックの想像を絶する過去が次第に明らかになっていく・・・。著者のフィリップ・クローデルはいまフランスを代表する人気作家のひとりということだが、寓意的な語りの魅力が読み手をぐいぐいとひっぱっていく。1962年生まれという完全な戦後世代が、自国の戦争犯罪の問題に向き合っているというのも興味深い。当事者ではない分、計画的なユダヤ人虐殺という歴史的事実に対して突き詰めたリアリティは薄いのかもしれないが、人間性とは何かという問題に注いでいるまなざしの確かさは伝わってくる。それにしても、まるでカフカの測量技師のように村を訪れる「アンデラー」とはいったい誰なのだろうか。私には、それは村人の心に重くのしかかっている「両親の呵責」の象徴のように見えた。良心を虐殺することによって私たちは戦後を生き延びたのだ、と。

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桐野版「古事記」だが…

女神記 (新・世界の神話)
桐野夏生「女神記」角川書店

「世界32カ国共同プロジェクト」である「世界の神話」というシリーズの1冊として書き下ろされた桐野夏生の新作。このプロジェクトで出版された他の作品を読んでいないのだが、世界各地の神話を題材にして各国の作家に新作を依頼するというものらしい。桐野の場合は、「古事記」などに記された日本神話が題材となっている。

さて、本作でもここ何作かの桐野作品と同様、沖縄(あるいは「南の島」)が物語の舞台となっている。そしてこの作品の大きなテーマは、イザナキとイザナミの神話を女の視点から語り直すというところにある。この作品の概念的な枠組みは、ヤマトではなく「辺境の島」から、男性ではなく「女性」から、つまりいずれも「外部」の視点から日本神話を批評的に再解釈しようということだと言えるだろう。この概念枠組み自体は、言うまでもなく非常にありふれていて、新味のあるものではない。しかし、それはあまり重要なことではないだろう。物語の論理的な構造を超えてしまう「語り」の力こそが、文学の最大の魅力なのだから。

だが、この作品に関しての私の判断はちょっと辛い。南の島の描写は魅力的だが、カミクゥやナミマ、マヒトといった登場人物がそれほど絡み合うわけではないため、これまでの桐野作品のようなリアリティあふれる人間描写が少なく、物語としてかなり食い足りなさが残るのだ。物語の中心にいるのは黄泉国に住むイザナミという神だが、この神様を人間的に捉えてその「心情」に迫るには、あまりにも時空設定にリアリティがなさすぎる(神様だから仕方ないけれど)。結果的に、身動きのとれない不自由な場所で一生懸命桐野ワールドを現出させようとしているような難しさを感じてしまう。編集者の狙いとしては、「女性の情念を描く作家だから、桐野夏生にイザナミをぶつけよう」ということなのかもしれないが、もしそうだとしたらそのコンセプト自体が少し間違っているように感じる。桐野夏生は具体的な描写の積み重ねでリアリティあふれる人物を構築していく作家であり、内面的な心理描写を得意とするタイプではない。主人公の独白ですら、言葉の裏にある正反対の真意を描写によって浮かび上がらせるようなところがある。こういう人にイザナミという神話の登場人物を描かせるのはちょっと酷ではないだろうか。

この不自由さに縛られてか、物語が帰着する「男と女の理解不可能性」にも説得力が欠けている。いま、神話を題材に男女の関係性を語る必要性もしくはアクチュアリティがどこにあるのか、私にはよくわからない(まあ、隠蔽された原=日本神話に内在する母性への回帰を唱えるというようなとんでもない結末にならなかっただけ良いけれど)。桐野夏生にはもっと徹底して語りの面白さを追求してもらいたいし、その中で人間性についての残酷なまでのリアリティを描き出してこそ、文学としての価値があるといえるだろう。この作品を読んで日本神話をあらためて読みたくなる、というプロジェクトとしての効果は否定しないが、桐野作品として見た場合のクオリティは必ずしも高くないと感じる。このプロジェクトは受けなくてもよかったのではないか?

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ものを考えるということを考える

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文芸春秋(文春新書)

内田先生の小林秀雄賞受賞作(おめでとうございます)。前から気になってはいたものの手を出さずにいたのだが、受賞をきっかけに読んでみた。「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」という問いが入り口だが、最終的に辿り付くのは、著者が師であるレヴィナスから示された「ユダヤ的なものの考え方」とはいったい何なのか、という問いだ。明晰な論理でユダヤ人問題を腑分けし、反ユダヤ主義の言説を分析していく文章は極めて読みやすい。しかしこの著作で本当に読むべきところは「結語」(pp.213~229)。「自分が犯したのではない罪についての有責性」をめぐるこの神学的な議論は確かに難解で、著者のいうところの「棘」だ。しかしその込み入ったロジックに分け入っていく感覚は実に魅力的。ユダヤ問題について語りながら、知的思考が基づけられているものとは何かを探求しているのだ。

私は「結語」を読みながら、カラマーゾフのことを考えていた。

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車到山前必有路

あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅
城戸久枝「あの戦争から遠く離れて」情報センター出版局

著者の父は中国残留孤児。まだ日中国交回復前の1970年というとても早い時期に、文化大革命さなかの中国から命がけで日本に帰国した。自らの父が辿った数奇な運命を、10年の歳月をかけて調査しまとめあげた大変な力作だ。

前半が父の半生の物語。混乱の中で実の父母と別れ、運命のつながりで中国の養父母にもらわれ、農村の貧困の中で苦労しながらも自分が日本人であるという意識を高めていく。戦後の中国の政治的社会的混乱をかいくぐりながら、自力で必死に帰国の道を探り、奇跡的に帰国に成功する。これはすぐに映画化されてもおかしくない、まさに事実は小説より奇なり、というドラマチックな物語だ。後半は、この本を書き上げるに至るまで、中国という国とそこに生きる人々に向き合ってきた著者の青春の旅路。自らにつながる歴史を探っていく中で、日本の若い世代のひとりとして現代の中国を見つめる著者の姿は、父の物語にも劣らず感動的だ。

日本と中国との間の過去の戦争や現代の関係は、著者にとっては決して単なる歴史上の、あるいは時事的なトピックなのではなく、自らの存在そのものに直接的に関わっていることだ。これだけ熱のある(しかし決して感情過多に陥ることのない、とても冷静な)文章は、自分の根っこに深く関わっていることについてでなければ書き得ない。頭ではなく心で書いているということが読み手に深く伝わってくる。

日本と中国の関係に向ける著者のまなざしは、とても信頼できるものだと感じる。これからも中国と日本をテーマにしたノンフィクションを書き続けていってほしい。「車到山前必有路」、いい言葉です。

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