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雪のマラ3

Myungwhunchung1降りしきる雪の中、チョン・ミュンフン指揮、N響2月定期Cプロの初日を聴くためにNHKホールへ(2月11日)。曲はマーラーの3番。4管18形の大編成で、非常に充実した、かつ緻密な響き。聴いていて最初に頭に浮かんだのは "genau" という言葉。「正確」と訳すと少しニュアンスが違う。きっちりちゃんとして目が詰まっている感じ。そしてもうひとつ印象的だったのは、「音のないところ」にとてもこだわっていること。この曲にはしばしば、ひそやかな気配だけで音楽が進行していくところがある。それはちょうど、しんと静まり返った森の中で、なにか神聖なものの存在を感じたりするような感覚だ。そうした弱音の部分を、チョンは意識的に緊張感をもって響かせていたように思う。第1楽章の弱音の部分では、寝ている人のスースーといういびきがホール内に響くほどだった。見事なトロンボーン・ソロもこの感覚と調和していて、素晴らしい出来ばえ。

私は3階で聴いていたのだけれど、第3楽章のポストホルン(楽器はたぶんコルネット)はこれまで聴いた実演の中では最も遠くから聴こえてきた(2階通路奥で吹いていたらしい)。かなり遠い響きだったので、おそらく「遠すぎる」と感じた人もいたのではないか。しかしこれもおそらく弱音の演出のひとつで、単なる夢幻的なニュアンス以上のもの、はるか昔の遠い追憶(もう失われてしまった時間)を呼びおこすものであるように感じられた。

アルトの藤村さんが第4楽章で聴かせた深みのある歌唱は、この「夜の歌」のイメージをこの上なく巧みに表現したもの。そしてそれと響きあう最終楽章は、かなりテンポを落としてゆっくりと包み込むような感じだった。転調するたびに、天上から差してくる光がやわらかくうつろう。そしてクライマックスではティンパニ4台(下手に置かれていて、いつ使うんだろうと思っていた)という特別演出あり。さすがにエンディングはためて振るのでタイミングはわずかにずれてしまうが、音量と視覚的効果を最優先にした選択で、私は面白かったと思う。今日は拍手もブラヴォーもちゃんと棒が下ろされてからで、本当に好きな人たちが集まっているんだなあ、ということが伝わってきた。雪のおかげかな。

さて、この曲の実演では独唱者と女声合唱と児童合唱がどのタイミングでステージに入るのかがいつも気になるのだが、昨日は女声合唱だけ最初から座っていて、第3楽章の最後でまずゆっくりと独唱者が入ってきて、続いて児童合唱が急いで入ってくるというパターン。印象としてはちょっと慌ただしい。また最終楽章に入る前に着席の時間をとったので、スコアの指示通り Folgt ohne Unterbrechtung ではなかった。ここはやはりアタッカでいった方がいい。しかしともかく、音楽的に考え抜かれた感動的なマーラー3番だったと思う。一夜明けてすぐにいろいろブログ記事が出てきているので、聴いた人はそれぞれに強い印象を受けたのだろう。チョンのマーラーはもう何度か聴いているけれど、そんなにハズレがない。

<今日のいけしょう>
第4オーボエ奏者(イングリッシュ・ホルン持ち替え)として出演。そんなにイングリッシュ・ホルンのソロがたくさんある曲ではないけれど、決めどころはパーフェクトに決めてくるのがやっぱりいけしょうです。

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ファンタスティーク

K10040553031N響定期2月Aプロの初日を聴く(2月5日)。指揮はチョン・ミュンフン。

ジュリアン・ラクリンの独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。オケの作りは雄大な感じ。ラクリンの実演は初めてだが、美音派だ。ただ、ヴィブラートのかけ方は僕の好みとは少し違う。このタイプの速いヴィブラートは、僕には線が細く神経質に聴こえてしまう。でもこういうのを瑞々しいと感じる人もいるから、完全に好みの問題だ。また第1楽章は音程がわずかにフラットであるように感じたが、調弦し直した後の第2楽章からは気にならなかった。カデンツァはクライスラー。

他の人の記事を見ると、2日目のラクリンはアンコールでバッハの無伴奏を弾いたらしいが、初日は何もなし。

後プロはチョンの十八番であるベルリオーズの幻想交響曲。第1楽章から情熱的にガンガンいくタイプの演奏だが、N響はどんなに熱くなっても決して乱れない。第2楽章のコルネットはなし、ハープはやっぱり2台。第3楽章は完全にいけしょうが持っていく。第4楽章、第5楽章も情熱が迸るけれど合奏は実に緻密で、このあたりがN響の美点だ。聴き終わって充実感のある名演で、拍手も大きかった。

<今日のいけしょう>
「幻想」でコール・アングレ奏者として登場。第3楽章はおいしい。

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母は娘を産み、娘は母となる。

6faf9fdd9d5b82b2dc4008b65e5ed67c1男性である私にとっては、母と娘の絆というのはわかるようで本当にはわからない。父と息子との関係とは全然違う、女性どうしならではの深いつながりがあるように思う。それはあるときは押し付けがましいほどの愛情であり、またあるときは血の流れるような激しい憎しみであり、そしてまたあるときには底なし沼のようなべったりとした共依存であったりするのだろう。映画「愛する人」(原題: Mother and Child)はそんな母娘関係というテーマを、静かなドラマの中にとらえた秀作。

14歳で妊娠・出産し、母親の意思によって娘を養子に出さざるを得なかった主人公カレン。そして実の親を知らずに育ち、「産む性」であることを強く拒否するようになった娘エリザベス。生きる喜びを感じられず、氷の塊のように冷たく頑なだったふたりの心が、周囲の人々の愛を知ることによって少しずつほどけていく。やがてお互いを探し求めるようになる過程が、じんわりと抑制された語り口で描かれる。ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をテンプにしたと思しき音楽が、心に沁みる。

しかし、生き別れた母と娘はついに出会うことがない。物語としてこれ以上の悲劇はないだろう。それでも母は、娘が遺した孫娘に会うことで、大きな安らぎを得る。母から娘へ、そして娘から孫娘へ、命が継がれていくイメージが素晴らしい。そしてラストシーン、カレンがいまはもうこの世にいない娘にあてて書く手紙。うーんやられた・・・と思いつつも、涙を止めることができない。見る人の感情を深く揺さぶる映画だ。

ドラマの中には様々な母娘が繰り返し描かれる。そして繰り返される出産シーンは、母と娘の関係が「産む性」としてのフィジカルかつスピリチュアルなつながりであることを強調している。これは母と娘がどこまでも連なっていく物語であり、この連鎖の中では、男性はタネ付け(失礼)をするという以外にほとんど意味を持たない。男性としては複雑な心境なのだが、これが女性にとってのリアルな感覚なのだろうというのはわかる。母と娘はとても近く、とても遠く、ずっと離れていても片時も離れられない、そんなものなのだろうか。

プロデューサーは「バベル」のイニャリトゥ。独立して別々に進行する複数の物語が最後にひとつになるといういつもの手法は、ここでも効果的に用いられている。そして監督は、これでもう「ガルシア=マルケスの息子」という肩書から自由になることができるだろう。

ロドリゴ・ガルシア監督、2009年。

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