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70年代フランス賛

20517_01_l11970年代のフランス文化をいま振りかえると、確かにちょっと魅力的かもしれない。野暮ったさとおしゃれ感のギリギリのバランス。同時代的に体験していない人がこの感覚を理解してくれるかどうかわからないが、映画「しあわせの雨傘」は、そんな70年代後半のフランス文化へのオマージュともいえる作品だ。

果たしてこれは世界的なマーケットを意識しているのだろうかと思うほど、フランス人向けの内容。とある一地方におけるブルジョワと労働者階級の対立、そこにからむ自由奔放な恋愛劇。全体としては軽いコメディであり、物語は決して深刻にならない。まさにフランス的な笑劇(ファルス)だ。女性の自立をテーマにしているようにも見えるが、これも「当時はよくこういうことが話題になりましたよね」という記号として扱われているだけだと思う。それよりも、衣装や小道具に徹底されている70年代テイスト、合成画面を随所で用いるポップな編集、ミュージカルのように全編に流れる70年代後半のフレンチ・ポップスなどからして、この作品の本質は70年代フランスへのノスタルジーであり、それ以上でもそれ以下でもないと私は考える。フランス好きなら楽しめるだろう。作品としてのメッセージはないようなものだが、それをいうのはそれこそ野暮というもの。

むしろこれはカトリーヌ・ドヌーヴの映画だと考える方が良い(「ブルー・ハワイ」がエルヴィス・プレスリーの映画だというのと同じ意味で)。邦題は「シェルブールの雨傘」とかけたのだろうけれど、雨傘とドラマはそんなに関係ないのでちょっとミスリード気味だ。原題はブルジョワ夫人を象徴する「potiche=飾り壺」。それにしても、ブクブク太って見るも無残なドパルデューには口あんぐり。

フランソワ・オゾン監督、2010年。

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タンクの中の恐怖

T0009453p1レバノン戦争の初日を、戦車で侵攻したイスラエル軍の兵士の視点から描いた映画「レバノン」。そもそも「レバノン戦争」というものを生々しく感じることが(私を含めて)多くの日本人には難しいわけだが、なんでイスラエルの兵士がレバノンに侵攻しているのか、迷い込んだ先がなぜシリア占領地域なのか、そしてなぜ友軍がファランヘ党なのか、きちんと説明できる人もなかなかいないだろう。それだけこの戦いをめぐる政治状況は混沌としているのだが、どうやらそれは戦場の兵士たちにとっても同様だったようだ。自分たちがなぜここで戦っているのか、そして誰が敵であり、誰が味方なのかさえ、上官を含め誰もはっきりとはわかっていないのだ。

この映画の最重要ポイントは、戦争映画であるにもかかわらず、カメラが最初から最後まで狭い戦車の中から出ないというアイデアである。狙撃手は照準器を通してのみ、外の世界の悲惨な光景を見る。ドラマは徹底的に戦車の中という密室で進行し、暗闇の中でスクリーンを見つめる観客たちも、兵士たちと一緒に戦車の中に閉じこもっている感覚を味わう。極限状態の中で敵に囲まれ、戦場にぽつんと取り残されること。その恐怖感を兵士たちとともに感じることが、このアイデアの狙いだ。これが、兵士たちが感じていた感覚なのだ。

泥と油と血液が混じりあったドロドロの液体が、戦車の内壁をつたってたれていく。何度も繰り返されるそのしつこいショットが、監督が感じた戦場の空気を表している。それと対比される青空の下のひまわりの映像の鮮烈さ。ひとつの視点に徹底的にこだわり、伝えたいことに集中することでできあがった、恐ろしい映像作品だ。見終わった後は茫然としてしまう。殺し殺されるというこの恐怖が現実であったということに、言葉もない。

サミュエル・マオズ監督、2009年。

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SNSで人は幸せになれない

001l1つい先日、ゴールデン・グローブ賞4冠というニュースも飛び込んできた「ソーシャル・ネットワーク」。マーク・ザッカーバーグがどのようにして世界最大のSNSであるフェイスブックを始めたのかを題材とした映画だ(フェイスブックの発想がアイヴィー・リーグの学生クラブ=フラタニティから生まれているというのを初めて知ったが、なるほど納得)。よくできた青春物語ぐらいかなと思って観始めたら、予想を大きく裏切ってとても面白かった。すでに出ている「現代の『市民ケーン』」という評は、まさにその通りだと思うが、もう少しだけ付け加えたい。

単なる「億万長者の孤独」というだけではなく、ソーシャル・ネットワークという「人と人とのつながり」をつくるシステムを開発した張本人が、結局誰とも人間的な関係を結ぶことができないという皮肉がストーリーの基本にあることは確かだろう。しかもマーク自身は他人と深くつながりたいと熱望しているのにもかかわらず、である。それを阻んでいるのは彼の壮大な自己愛であり、コンプレックスに基づく自己顕示欲だ。そしてそのようなマークの姿は、実はSNSにどっぷりとつかってしまっている私たちの姿に重ねられていることを作品からきちんと読みとらなければならないだろう。彼がフェイスブックに登録したかつてのガールフレンドにメッセージを送り、執拗に何度もリロードしてメッセージが返ってきているかを確かめようとする姿は、自己愛にまみれながら、毎晩PCに向かって誰かと「つながろう」としている私たち自身の姿そのものなのだ。

しかしながら、作品全体としてはそういう特定の解釈をあまり押し付けてはこない。マークの姿(あるいはフェイスブックにまつわることのすべて)を多義的に描いていると感じられる。私よりももっと若い世代で、ITベンチャーに近い業界の人などは、マークという人物に強い親近感を持って感情移入して見るだろうし、ナップスター創業者のショーン・パーカーのスタイルを「クール」と感じたりするだろう。マークをアイデア盗用で訴える双子兄弟(これを実はひとりで演じていることに驚き。ティム・バートンのハンプティー・ダンプティーどころではない、驚くべき完成度)の主張に共感する人だっているかもしれない。ある意味、この物語に「悪人」はいないのだ。現在進行形の物語だけに、価値判断は観る人に委ねたいという監督の意図があるのだろう。だから先述したことも私なりの感じ方なのだが、SNSに一度ははまりながらもやめてしまった(そしてそれを本当に正解だったと思っている)私としては、ネットでのヴァーチャルなつながりのあり方がいかに進化していこうとも、深く感情的なリアルのつながり―家族との談笑、友人との握手、恋人との抱擁やキス―なしには人生は絶望的に空虚だと感じる。SNSは便利だ。しかしそれで人は幸せにはなれない。そしてそのことを一番よくわかっているのが、マーク・ザッカーバーグ本人なのだと思う。

監督のデヴィッド・フィンチャーと脚本のアーロン・ソーキンは素晴らしい仕事をしている。シフト・レンズを多用した映像には強くひきつけられるし(特にボート・レースでのティルト・シフト・レンズの異化効果は面白い)、冒頭のマークのナード(オタク)節全開の高速お喋りに始まる言葉の詰め込み方がまた凄い。トレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)の音楽も受賞に値する出来だったが、個人的にはエンディングにビートルズの Baby, You're Rich Man を持ってきたセンスに悶絶。本当に、どこまでも現代的で「クール」な作品だ。10年後に観れば、また全然違った風に感じるだろう。

デヴィッド・フィンチャー監督、2010年。

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JLG

Mainphoto1この映画についてはいくらでも書けるような気もするし、何を書いてもまったく徒労に終わるような気もする。だから観たという自分の記録として書き記し、手短に済ませよう。全編をHDカムで撮影し、ファイナル・カット・プロで編集したゴダール初の全編デジタル・シネマ、「フィルム・ソシアリスム」。ほぼすべてのセリフが引用(クレジットで典拠も示されている)。音も映像もノイズに満ち溢れており、ここにきてゴダールのソニマージュはまた全然違うところに向けて走り出している。もはやECMの音楽はなく、言葉を失うような美しいカットもない。アルゴ号をモチーフにして始まるストーリーは、ヨーロッパ文明の始原に向かっていくようにみえるが、その航海のどこかで音と映像の渦の中に飲み込まれ、あてどなく漂い続ける。ヨーロッパとは何か、どこから来たのか、そしてどこへ行こうとしているのかとゴダールは問うている。

ゴダールの映画は、音楽を聴くように観ないと「理解」できない。そしてその圧倒的な体験は、観た者が思わず何事かを語りたくなってしまうようなものだ。でも残念ながら、その体験を上手に語るだけの力を今の私は持っていない。うまく言葉にはできないけれど、なんだか凄いというものも世の中にはたくさんあるのだ。通人のふりをして借り物の言葉でゴダールを語ることは、この体験を矮小化してしまうだけのようにいまの私には感じられる。いまはただ、リアルタイムでゴダールを観ているということの意味を、いつか自分の言葉で語れるように準備しておくだけだ。それまでは「ノー・コメント」で。

ジャン=リュック・ゴダール監督、2010年。

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マリンはヘンだと思いませんか?(意見求ム)

192_480x7201イオン・マリンが振ったN響の1月C定期(初日の14日)を聴きました。マリンは日本ではまだ一般的な知名度は高くないですが、ルーマニア出身でオーストリアを拠点に活躍してきた中堅の実力派指揮者。なかなかのイケメンでもあります。今回のプロは、去年5月に大フィルの定期に登場した時のプロとまったく同じ。私はその頃ちょうど大阪にいましたが、残念ながらその演奏会は聴いていません。

まずは「ハゲ山」。「一部原典版使用」とプログラムに書いてあったのは、大フィルを聴いた人からの情報通り、リムスキー=コルサコフ版の「鐘」以降(381小節以降)をカットして、1867年原典版のエンディング(おそらく練習番号16の1小節前から)をくっつけたもの。マリンは去年のベルリン・フィルのヴァルトビューネでもこの版でやっていたそうですから、もはや「マリン版」と呼ぶべきかもしれません。私は初めて聴きましたが、予想通りかなり強引な編曲です。そもそも原典版とリムスキー=コルサコフ版は素材的には共通しているものの、まったく別の曲と考えた方がいいぐらい違うものです。どういう意図かわかりませんが、それを無理矢理一緒にしているので、まさに「木に竹を継いだ」という印象。しかしながらマリンは、単なる思い付きではないんだ!とばかり、物凄く真剣に思いを込めてこの版を演奏しているので、その気迫に押されて「ナ、ナンダカよくわからないがとりあえず聴いてみよう」という気になってしまいます。そしてN響は高い合奏力と表現力で、この非常に鳴りにくいオリジナルのオーケストレーションを見事にこなしてしまうのでした。最後まで聴いても編曲の意図はよくわからないのですが、思いは伝わりました。

次の「クープランの墓」でさらに驚愕。オーボエがどのくらい速いテンポで「前奏曲」を始めるのかを待ち構えていたら、なんと茂木サンは聴いたことがないくらい遅いテンポで吹き出したのです。しかもやたら遅いだけでなく、随所でルバートをかけてテンポを動かす超個性的な解釈。クラヴサンによる優雅な演奏ではなくて、モダン・ピアノによる超ロマンチックな「クープランの墓」という感じでしょうか。この曲としては弦のプルトが多い(16型)こともその印象を強めます。この曲はフランス古典音楽へのオマージュとして、ロマン派的な表情づけを排して演奏されるのが通例だけに、、一体マリンは何がやりたいんだ!?とまたしても頭を抱えてしまいました。しかしこれがまた奇を衒ったという感じでもなく、真剣に「これがいいんだ!」と感じ入ってやっているのです。弦の響かせ方は実に美しいし、管のニュアンスも見事。スタイルはどうみても場違いですが、演奏はなかなか聴かせます。「フォルラーヌ」「メヌエット」とそんな感じでやって、「リゴードン」でようやく普通になったかな?と思っていたら、エンディングの強烈な音伸ばし…やられました。うーんわからん。

後プロは「展覧会の絵」。この曲はさすがにどんな味付けでも楽しめる曲なので、各プレーヤーの名人芸を堪能しながら楽しく聴かせてもらいました。全体的な特徴としては、プロムナードの独特のフレージングや、「ビドロ」のコントロール、「キエフの大門」でぼんやりと靄の中から門が出現してくる感じなど、ムソルグスキーの原曲のイメージを汲んだ解釈と言えます。それにしてもその「大門」のテンポの遅いこと遅いこと。拍のアタマをあまりにもタメるので、ティンパニと大太鼓の打撃タイミングがしばしばずれてしまいます。本当にこれをやられるとオケは大変。でも、この超スローなテンポでも間延びせず、充実した分厚い響きを作り出すN響はやっぱり凄いと思います。で、やっぱり頭に浮かんだのはマリンと同じくルーマニア出身の巨匠、チェリビダッケの超スローな「大門」でした。マリンもチェリビダッケ同様、最後の大太鼓をヘミオラで打たせていたし、この曲に関してはチェリビダッケの解釈をかなり意識しているんではないかと思います。

一言でいえばマリンはかなりヘンです。しかも、なんでこんなヘンな考えにたどりついたのか、その論理が聴いていてさっぱりわかりません。単に思い付きだったり、奇を衒っているのであれば、その底の浅さはすぐに分かるのですが、本人は実に真剣にやっているようです。そして、出てくる音楽はなかなか素晴らしいのです。単に面白がればいいのかもしれませんが、私などはなんでこうなってるんだということがわからないと、なんだかとっても気持ち悪いんですね・・・。ちょっと評価の難しい人です。みなさんの意見をききたいので、もしマリン体験者がこのブログをお読みになったら、ぜひコメントを下さい。

<おまけ:今日のいけしょう>
「ハゲ山」と「展覧会」でセカンドでした。「クープラン」は降り番。ちょっと見せ場少なし。

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ひたすら疾走の1時間半

C_unstop1暴走する列車の映画といえば、コンチャロフスキー(脚本は黒澤)の「暴走機関車」を超えるものは今後もまずないだろう。あれと真っ向から勝負するのは難しいと、当然プロデューサーも監督も考える。勝てるのは進化した撮影技術だけだ。だから作品に深みを加える人間ドラマのようなものはバッサリ省いてしまい、とにかく迫力のある鉄道の映像を撮ることにすべての資源を注ごう。おそらくはそういう考えで作られたのがこの映画「アンストッパブル」である。

ヘリコの空撮を多用した、スピード感満点のスリリングな映像が素晴らしい(映像にはこだわるスコット兄弟の腕の見せ所)。結末はだいたいわかっているのに、思わず手に汗を握る映像の力だけで最後まで見せ切ってしまうのだから凄い。その一方で、ストーリーはこれ以上単純化できないほど単純。「暴走する列車を止める」、ただそれだけである。主人公たちの家族物語は、本来は時間を割いて感情移入たっぷりに描かれる要素なのだが、完全に背景に退いている。やや反発しあっている主人公同士の関係など、観客をハラハラさせる上では最高においしい要素だと思うのだが、物語の中でこれは活かされない。サイドストーリーと呼べるのは、利益を優先するあまり事態を甘く見る鉄道会社の話だけだ。本当に、ただただひたすら列車が暴力的に疾走するだけの映画。

正直なところ、本作の上映時間である1時間38分は、この手法で見せられる限界時間であるように思う。観終わった後は安堵感と同時に「これだけ?」という拍子抜けが待っている。

トニー・スコット監督、2010年。

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アギレラの大作PV

Main_burlesque1今年もよろしくお願いします。今年最初に観た映画は、公開時から意外に評判の良い「バーレスク」 。結論から言えば、シェールをスペシャル・ゲストとして迎えたクリスティーナ・アギレラの豪華なPV(所属レコード会社であるソニー・ミュージックが制作)でした。いや、別にけなしているわけではありません。

題材は、田舎からスターを夢見て大都会に出てきた女の子のサクセス・ストーリーという恐ろしいほどありきたりなものだし、そこにからんでくるロマンスとか店の経営難といったサイド・ストーリーもおきまり。でも、そもそもPVに入り組んだストーリーなど必要ないでしょ?この作品は実質的にミュージカル仕立てで、ひたすら歌とダンスを見せるものです。ただ、その見せ場が「シカゴ」みたいに複数の役に割り振られているのではなく、アギレラひとりに集中している(そしてちょこっとシェールの見せ場もある)というわけ(だからミュージカル映画ではなくPVだといえる)。で、確かにアギレラの歌とダンスはエンターテインメントとして素晴らしい。ということで、アギレラファンにはたまらないだろうし、ミュージカルファンも楽しめるだろうし、洋楽ファンやダンス好きにもある程度アピールする作品といえます。カップルがデートで観るには悪くないでしょう(ちょっとエッチだし)。映画としては全然たいしたことがないのですが、音楽PVとしては良く出来ています。あとは、1800円払ってアギレラのPVを観ることに納得できるかどうかということです。

それにしても、Wikipedia によるとシェールは64歳なんだが、信じられん。森光子に肉迫する驚異だ。それから、スタンリー・トゥッチにオシャレなゲイ以外の役はないのか。これじゃ「プラダを着た悪魔」のときと同一人物だ。

スティーヴン・アンティン監督、2010年。

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