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犯人のいない暴力

Tnr1012030808006p11 子供は純真だなんて誰が言ったんだろう。自分の子供の頃のことを思い出してみれば、そんなことは嘘っぱちだとすぐにわかるではないか。子供は純真でも無垢でもなく、無力なだけだ。そして、子供たちの世界は恐ろしいほどの悪意に満ちている。

人間の心の闇に迫る作風で、カルト的な人気を誇るミヒャエル・ハネケ監督の最新作、「白いリボン」。昨年のカンヌ映画祭パルムドール作品だ。固定したカメラでの長回しを多用した白黒の映像は、不気味なほど静かで美しい。そしてこの抑制された映像だからこそ、村人の間にゆっくりと堆積していく悪意がひりひりと感じられる。暴力はほとんど直接的に描かれず、ただ悪の気配だけが腐臭のように村の中に漂う。スクリーンに映し出される漆黒の闇が、これほど見る者を戦慄させるとは。

欧米の批評がこれをナチズム批判の映画と捉えることは、基本的には間違っていない。封建主義と極端なプロテスタンティズムによる抑圧が、暴力を許容する歪んだパーソナリティを生んだ。あるいは、暴君を自ら進んで受け入れてしまう服従的なパーソナリティを作り上げた。それが結果的にナチズムの土壌となったのだ。そう語るのが現代ヨーロッパにおける良心だが、この映画はさらに普遍的な問題を指し示していることも確かだ。

男爵と小作人たちとの間の不平等、女性たちへの性の強要、人間らしく生きることを否定する厳格な信仰、躾に名を借りた子供たちへの虐待…。世界はとっくに壊れてしまっているのに、大人たちは何も見ないふりをして毎日を過ごしている。悪意に満ちたこの世界を自分たちの手で壊したい、すべてに罰を与えて世界を新しく作り直したい、と最も強く願うのは子どもたちではないか。そしてそれは実は善良な村人たちのひそかな願望であるがゆえに、何が起きても犯人は決して名指されないのだ。やがてそれは戦争へ、ナチズムへとつながっていくのだが、そういう歴史的分析とは別に、いつの時代にも現れる共同体的暴力のメカニズムを描くことが、この映画の主眼であるように思う。そしてその問題意識はもちろん、深刻ないじめの問題を抱える私たちの社会とも無縁ではない。

ハネケ監督は物語の中で一連の事件の犯人を明らかにしない。観客は語り手の教師と同じく「よそもの」にとどまり、この共同体の中に入っていくことを許されていない。語られた物語を頼りに、自らの想像力を駆使して謎を推理し、物語の空白を埋めていくことが求められているのだ。作り手としてのその作法に、改めて敬意を覚える。

ミヒャエル・ハネケ監督、2009年。

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