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ロビン・フッドの政治性

001l1「『グラディエイター』よふたたび」という感じの、リドリー・スコット監督とラッセル・クロウのコンビによるハリウッド歴史大作「ロビン・フッド」。ロビン・フッドといえばどうしてもケヴィン・コスナーを連想してしまうが、こういう先行作品に、まったく違う視点を持ち込んで異化するのがこの監督の得意技だ。今回は作品のバックボーンにイングランドの成立とマグナ・カルタを据えることによって、伝説の物語をよりリアルな史実の中に位置づけることに成功している。以下ネタばれあり。

いつもながら、映像の力が凄い。冒頭の見せ場となるフランスの城攻略、そしてクライマックスとなる海岸でのイングランド軍とフランス軍の激突、このふたつの戦闘シーンにかけられているヒト・モノ・カネは尋常ではない。そして、それを迫力満点の映像に仕上げるリドリー・スコットの才能にはただただ感服。武器や建築や衣装といったディテールへのこだわりと、美しい自然を見せるロケーションへのこだわりが、13世紀初頭のイングランドをリアルに現出させる。ユーモアもあり、ロマンスもありで、ハリウッド・ムーヴィーの一番美味しいところを、極上に仕上げて出してくれる。映画を観るという体験の面白さを、文句なしに味わせてくれる作品だ。

もちろん、「ロビン・フッドの誕生」にしてはラッセル・クロウが年取り過ぎなんではないかとか、ヒロインのマリアンがヨロイを着て闘っちゃうのはやりすぎじゃないかとか(ヒロインが強いのはリドリー・スコット作品のトレードマークだが、ここまでやると歴史的事実を曲げてフェミニストに迎合しているように見えてしまう)、細かいことはいろいろあるが、観客を力ずくでねじ伏せるような強い映像の前では何を言っても仕方がない。ただ、戦闘でマリアンが死んだように見せておいて、実は生きていたことが後でわかるのは、ウェルメイドの作法としてはちょっとひっかかるけれど。

映画としての出来はともかく、作品としてのメッセージはちょっと気になる。内憂外患に苦しむイングランドを国家として盤石なものにするため、民衆に自由の権利を保障すること。そして、個人の自由を認めない国家に反抗するアウトローを賞賛すること。これはまさにいまアメリカ政治を賑わしている「ティー・パーティー」の政治的主張と重なるところがあるのだ。リドリー・スコットはイギリス人だから、どれだけこのメッセージの政治性に意識的であるかはわからないが、制作会社は十分に考慮しているだろう。それだけこの思想はアメリカ人には受けるんだなあ、と改めて感じた次第。あえて挑発的な物言いをしてみれば、これは「反オバマ映画」ということになる。

音楽はハンス・ジマー門下のマーク・ストライテンフェルド。ジマー御大が忙しくなってしまったのか、ここしばらくリドリー・スコット作品はこの人が付けている。もう何作も一緒にやっているところをみると、監督も気に入っているのだろう。それにしても御大そっくりのスコア。おそらく監督は御大の「グラディエイター」、そして同門ハリー・グレッグソン=ウィリアムズによる「キングダム・オブ・ヘブン」)をテンプにしているとみたが、どうだろう?

リドリー・スコット監督、2010年。

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「ラプソディー・イン・ブルー」についてのノート(番外編)

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Michel Camilo (p) Ernest Martinez Izquierdo / Barcelona Symphony Orchestra (L'Auditori, Barcelona, Spain, February 2-4, 2005)


このブログへのアクセスを見ていると、意外と「ラプソディ・イン・ブルー」がらみで検索してこられる方がいらっしゃいますね。ご訪問ありがとうございます。だいぶ前に書いた記事で、様々な版の成り立ちとそれらの違い、ならびに「オリジナル版」や「フル・オーケストラ版」の演奏における慣習的なカットについての考察を行ったので、そちらをご覧になっているのでしょう。ポピュラー名曲なのに意外と知られていない情報なので、何かの参考になれば幸いです。

さて、そのときガーシュイン自身の録音のひとつについて「ミッシェル・カミロもびっくり」と書きましたが、不勉強なもので、そのときすでにカミロの録音があったのを知りませんでした。先日、偶然発見して聴きましたが、これは凄くいいです。

1946年の「フル・オーケストラ版」、しかもノー・カットの演奏です。冒頭のクラリネット・ソロに象徴されるように、オケにブルージーな感覚がたっぷり注入されているところが面白いのですが、やっぱり聴きものはカミロのソロ。ジュリアードで勉強していただけあって、クラシック界の名だたるピアニストと比較しても全く遜色のないテクニックと音色です。それだけでなく、この曲には絶対に欠かせない柔軟なリズム感覚があり、これに関してはプレヴィンやバーンスタインもかなわないでしょう。それがよくわかるのは曲中に何度も登場するカデンツァのようなソロの部分で、カミロはときにはビートをシャッフルさせ、装飾音も入れながらスピーディーな演奏を展開していきます。これがバーンスタインみたいに野暮ったく聴こえないのは、カミロのセンスが素晴らしいからに他なりません。そしてラテン風のフレーズを繰り出すときのエキサイティングな感覚はまさに天下一品。この曲が「20年代ジャズの要素を取り入れたクラシック」なのではなく、「20年代ジャズとクラシックの中間的な作品」であることをはっきりと認識させてくれる素晴らしい演奏です。

このディスクにはへ調のコンチェルトも入っていて、これがまた目の覚めるような演奏。うーん、これを聴いてしまうと、もうクラシック・ピアニストのガーシュインは聴けなくなってしまうかもしれない。CDショップでは、このディスクは「ジャズ」のところに置いてあるのでご注意ください。クラシックの評論家の人はちゃんとこういうのも聴いてね。

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ディズニー的3D映画

Tnr1012170921003p11「トロン:レガシー」を見た。1982年の「トロン」第1作公開時、私はまだ小学生で、本編を映画館で観ることはなかった。でもたぶん予告編か何かで映像を観ているので、あの映像感覚は(当時の時代感覚とともに)頭の中に焼き付いている。今回の新作に関しては、おそらく第1作を観ている人とそうでない人はやや感想が違うだろう。登場するキャラクターの意味合いなど、第1作を観ているファンの方が理解しやすい部分があるのだ。もちろん、観ていなくても理解できるようには作られている。いずれにしても、評価の大きな部分は変わらない。

ストーリーに関して言うと、恐ろしいほどに単純である。「主人公が故郷から異郷に試練の旅に出かけ、そこで悪と対決する。両義的な存在の助けを得て悪を倒し、女を得て故郷に戻る」。思わず物語の構造分析の事例にしたくなるほどだ。ついでに言うと、エディプス・コンプレックスそのままの父殺しの物語でもある。ということでほとんど神話レヴェルまで単純化されたお話だ。平板とまでは言わないが、完全に予想できる安心な展開。もうこれは、ストーリーはどうでもいいから映像を楽しんでください、というメッセージにしか思えない。

その映像だが、このレトロ・テクノ感覚は確かに美しい。CGの世界になってから3Dになる、というアイディアも悪くはない。しかしこの映像、全然驚くようなものではないだろう。全編を通じて画面が暗くてメリハリに欠けるし、いまさらCGの技術がどうこういうような時代でもない。3Dの技術も、正直言ってこんなものかと思った。前宣伝が派手だっただけに、これまでの3D映画とは何か違うものが「体感」できるのかと思って期待したが、この程度だったら2Dでストーリー・テリングの巧みな映画の方がはるかに楽しめると感じた。3Dがそこまでの表現効果に至っていないのだ。それでも3Dということで料金だけは高いのだから、恐れ入る。私は3D映像表現の可能性を否定するものではないが、私たちはまだ本当に面白い3D映像作品を作り出せていないと思う。

ということでまたしても辛口の評価になってしまうが、ストーリーが平凡で映像もイマイチなのだから仕方がない。良かったのはダフト・パンクの音楽ぐらいか。この映画をもとにしたアトラクションかゲームの方が映画よりはるかに面白そうだと思ってしまうのだ・・・ああ、そういうことだったのか。やっぱりディズニー映画だね。

ジョセフ・コシンスキー監督、2010年。

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Dutoit (2)

Img025ちょっと前のこと。12月のN響B定期がデュトワとエマールの共演だったので申し込もうとしたら、すでに売り切れでした。しかし横浜定期が同プログラムでまだ空きがあったので、横浜で観ることに。要はB定期の3ステージ目のようなものです。12月18日、みなとみらいホール。

前プロがその共演で、ラヴェルのト長調のコンチェルト。先日エマール氏自身の録音がリリースされましたが、そこでの盟友ブーレーズとの共演は完全に新古典派的解釈で、第2楽章などもほとんどテンポを揺らさず、両端楽章も過度なジャズ色や民族音楽色を強調しないものでした。 さて実演はどうか?確かに過度な味付けはないものの、エマール氏は録音よりもはるかに感情を込め、適度にテンポを揺らしながら弾いていました。改めて書くほどのことではないけれども、本当に音がきれい。柔らかくてキラキラしてクリア。聴いていて本当に幸せになれました。デュトワも包み込むような温かさと色彩感があり、N響メンバーの好演もあって素晴らしい出来だったと思います(特にイングリッシュホルン、素晴らしい)。ところで、この曲はなぜかこのところ東京での実演が相次いでいて、11月28日のアルゲリッチ(アルミンク/新日フィル)、翌日29日のロジェ(高関/N響)といずれも世界的な名手による贅沢な演奏でした。私は他の2つは行けなかったのですが、おそらく3つとも聴いた方は大勢いらっしゃることでしょう。ぜひ聴き比べての感想を教えて頂きたいものです。

盛大な拍手に応えて再登場したエマール氏は、しれっとした顔でブーレーズのノタシオンをバリバリっと弾いていかれたのでした。凄いねこの人。

後プロはショスタコーヴィチの交響曲第8番。ムラヴィンスキーに代表されるような厳しい演奏のイメージが強い曲ですが、デュトワは音色の美しさに焦点を当てているようです。N響の精密な弦楽合奏の魅力が強く感じられました。大爆発の部分でも、しっとりとした爆発(変な表現ですが)という感じ。そして、やっぱりイングリッシュホルンが素晴らしい。この音色を持っている人はそうはいないと思います。

たぶん、これが今年のデュトワとN響の最後の演奏会だと思うのですが、聴衆の温かい拍手にデュトワ氏も嬉しそうでした。やっぱりクラシックは実演に勝るものはなし。

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No way!

Tnr1010080820005p11 人気のある文芸作品を映像化して成功を収めることは非常に難しい。その作品に接した多くの読者が、自分なりの作品世界を頭の中に作り上げてしまっているため、どんなに理想的な配役で素晴らしい映像を撮ってもすべての人を満足させることはできない。また、言語の連なりによって描かれている世界を、限定された時間内のリニアな映像表現に置きかえる上での省略や翻案も、愛読者の強い反感を招く。これらはすべて当たり前のことであり、「あの役のイメージが違う」「あのエピソードがない」という映画評は無意味である。しかし、いま公開中の「ノルウェイの森」には、そういう次元とは別の根本的な問題があるように思える。

監督はヴェトナム系フランス人であるトラン・アン・ユン。学生の頃に見た「青いパパイヤの香り」が懐かしい。この人の映像表現には確かにオリジナリティがあり、1960年代末の東京が東アジア特有の湿度と熱を帯びた無国籍の風景に見えてきたりする。おそらく彼は村上春樹の作品には興味を持っているけれども、日本文化に造詣が深いわけでもないだろうし、作品の背景となっている社会状況の細部にも無関心だろう。その結果、ヨーロッパ人が村上春樹の「ノルウェイの森」という作品をどのように受容しているか、ということをうかがい知ることのできる仕上がりになっている。その点は、まあ興味深いと言えないことはない。だが・・・。

大きな問題のひとつは女優のキャスティングである。菊池凛子はまあ置いておくとして、なぜ水原希子というモデルあがりの新人を緑という重要な役に持ってくるのか。セリフ回しのできない(というか日本語すら怪しい)素人に、村上作品独特のセリフをそのまま言わせることには相当無理がある。結果としてこの女性の造形が全くできておらず、ワタナベ君がこの女性のどこに魅力を感じているんだかさっぱりわからない。また、霧島れいか演じるレイコさんという人物の造形も不明瞭。原作ではこの人は同性愛的な傾向をほのめかされているのだが、映画ではそういう含意はほとんど感じられず、存在感が極めて薄い。それなのに最後にいきなりワタナベ君とセックスするので、まるで意味がわからないのだ(明らかに監督は原作におけるこのシーンの意味を取り違えているか、理解していない)。

もうひとつの大きな問題は、語りの姿勢だ。原作は、37歳になった「僕」が、ドイツに到着した飛行機の機内放送で「ノルウェイの森」を聴いて、深いメランコリーにとらわれることから始まる。作中の出来事はすべて音楽によって導かれた現在の「僕」の追憶であり、全体にノスタルジーの薄い靄がかかっている。物語はすべて主人公の薄れかけていく記憶における内省であり、この大前提が共有されないとこの物語をどう見ていけばよいかという視点が定まらない。しかしながら映画においてはこの前提が明確でなく、物語があたかも現在進行形のように進むため、非常に平板な印象を与えるのだ。

結果としてこの映画作品からは、「虚無感に打ちひしがれている1960年代末の日本の若者たちが、セックスだけに生のリアルさを感じつつ生きているが、周囲の人々の死を経験することで、やがて責任ある大人に成長していく」というような、何とも浅薄なメッセージしか受け取ることができない。『ユリイカ』1月臨時増刊号で四方田犬彦氏が述べているように、この作品は「日本のTV局が韓流ドラマを作ろうとして適当な人材が見つからず、原作者の推薦するヴェトナム人に監督を任せたという程度の作品」である。フジサンケイグループと電通は、本当に「いい作品」を作ろうという気があるのだろうか?

トラン・アン・ユン監督、2010年。

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犯人のいない暴力

Tnr1012030808006p11 子供は純真だなんて誰が言ったんだろう。自分の子供の頃のことを思い出してみれば、そんなことは嘘っぱちだとすぐにわかるではないか。子供は純真でも無垢でもなく、無力なだけだ。そして、子供たちの世界は恐ろしいほどの悪意に満ちている。

人間の心の闇に迫る作風で、カルト的な人気を誇るミヒャエル・ハネケ監督の最新作、「白いリボン」。昨年のカンヌ映画祭パルムドール作品だ。固定したカメラでの長回しを多用した白黒の映像は、不気味なほど静かで美しい。そしてこの抑制された映像だからこそ、村人の間にゆっくりと堆積していく悪意がひりひりと感じられる。暴力はほとんど直接的に描かれず、ただ悪の気配だけが腐臭のように村の中に漂う。スクリーンに映し出される漆黒の闇が、これほど見る者を戦慄させるとは。

欧米の批評がこれをナチズム批判の映画と捉えることは、基本的には間違っていない。封建主義と極端なプロテスタンティズムによる抑圧が、暴力を許容する歪んだパーソナリティを生んだ。あるいは、暴君を自ら進んで受け入れてしまう服従的なパーソナリティを作り上げた。それが結果的にナチズムの土壌となったのだ。そう語るのが現代ヨーロッパにおける良心だが、この映画はさらに普遍的な問題を指し示していることも確かだ。

男爵と小作人たちとの間の不平等、女性たちへの性の強要、人間らしく生きることを否定する厳格な信仰、躾に名を借りた子供たちへの虐待…。世界はとっくに壊れてしまっているのに、大人たちは何も見ないふりをして毎日を過ごしている。悪意に満ちたこの世界を自分たちの手で壊したい、すべてに罰を与えて世界を新しく作り直したい、と最も強く願うのは子どもたちではないか。そしてそれは実は善良な村人たちのひそかな願望であるがゆえに、何が起きても犯人は決して名指されないのだ。やがてそれは戦争へ、ナチズムへとつながっていくのだが、そういう歴史的分析とは別に、いつの時代にも現れる共同体的暴力のメカニズムを描くことが、この映画の主眼であるように思う。そしてその問題意識はもちろん、深刻ないじめの問題を抱える私たちの社会とも無縁ではない。

ハネケ監督は物語の中で一連の事件の犯人を明らかにしない。観客は語り手の教師と同じく「よそもの」にとどまり、この共同体の中に入っていくことを許されていない。語られた物語を頼りに、自らの想像力を駆使して謎を推理し、物語の空白を埋めていくことが求められているのだ。作り手としてのその作法に、改めて敬意を覚える。

ミヒャエル・ハネケ監督、2009年。

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ジヴェルニー派というもの

Img0221883年、モネがパリ北方のジヴェルニーに家と土地を借りて移り住み、最終的にここを終の棲家として制作活動を行ったことは有名だ。しかし、印象派の名声が高まるにつれて、多くのアメリカ人の画家がこの地を多く訪れ、長期滞在して(ある者はモネのように住みついてしまい)制作するようになったことはあまり知られていない。ジヴェルニーはいわば芸術家のコロニーとなっていたのだが、そんな「ジヴェルニー派」に焦点を当てた珍しい企画の展覧会。

まあ、セザンヌやボナールも訪れたとはいえ、「ジヴェルニー派」のほとんどは金持ちのアメリカ人。想像するにポン・タヴァンみたいな状況が生まれていて、もとは素朴な田舎の村だったところが「芸術村」になったということだろう。多くの画家はフランス語などまともに話せなかっただろうから、アメリカ英語があちこちで飛び交っていただろうし、そんな画家の卵たちを相手に地元の人たちはカタコトの英語で商売していたに違いない。さて、残された彼らの絵を見ると、まあアメリカ印象派としては一定の評価がある人たちなのだが、やっぱり凡庸である。逆に、いかにオリジネイターとしてのモネが凄かったかということがよくわかる。そして、モネから直接教えを受けた義理の娘、ブランシュ・オシュデ=モネが描いたモネの庭の絵が、モネそっくりで素晴らしい。実は僕はジヴェルニーに行ったことがないのだが、最近モネの庭に園芸学的な興味を持っていて、いい季節になったらぜひ行ってみたいと思っている。

来年2月17日まで、Bunkamura ザ・ミュージアムにて。

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Dutoit (1)

N響の12月定期Aプロの初日を聴く(12月4日)。指揮はデュトワ。
前半は今年のショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワの独奏によるショパンのピアノ協奏曲1番。ユーラは1985年生まれということだから、まだ24、5歳か。かなりの長身で、すらっとした黒のパンツスタイルで登場。タッチはクリアで力強く、随所で印象的なルバートを多用しながらロマンチックに弾く。だが、音楽に耽溺している感じはなくて、むしろサバサバと醒めて俯瞰している印象。若干の弾き飛ばしも含めて余裕綽綽。デュトワの付けは弦楽器の響かせ方をはじめ凄く巧い。ふーん。まだ「面白い」と言える演奏ではないと思うが、将来のスターのデビューに立ち会っているのかもしれないと考えると楽しい。第1楽章の後半で(しかも弱音を聴かせているところだった)、誰かの着うたがけたたましく鳴ったのには驚いた。やれやれ。アンコールはマズルカ。

この日のNHKホールは満員で当日券なし。

後半はストラヴィンスキーの「うぐいすの歌」から。あまり実演の記憶がないが、デュトワらしい色彩感とリズムのキレが際立った素晴らしい演奏。複雑な音響が無秩序に交錯する、いかにもストラヴィンスキーらしいスコアを魅力的に響かせていた。そしてドビュッシーの「海」。デュトワの棒でこの曲の実演を聴くのは初めて。もっとざんぶりざんぶり鳴らすのかと思ったら、そこまでではなかった。しかし演奏は緻密でクリア。モントリオール響との録音と同じく、純音楽的なニュアンスよりも、色彩的で描写的な表現をめざしたもので、N響の高い技術と相まって実に達者な演奏だった。ただ、なんとなく予定調和のような大味な印象があったようにも思う。これはたぶん僕の問題。ちょっとデュトワの「海」に期待しすぎていたのだ。

おまけ情報。やはり、第3曲におけるトランペットとホルンの「合いの手」フレーズは「あり」で演奏されていた。

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