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乳白色の壁画

Img015僕が学生の頃(バブル末期から崩壊ぐらいまで)、東京の多くの百貨店には小さなミュージアムがあった。規模的にはギャラリーに毛が生えたようなものなのだが、さすが時代が時代だけあって、有名作家の展覧会がひっきりなしに開かれていた。僕はもともと海外育ちで、子供時代にヨーロッパの有名な美術館はほとんど訪れていたのだが(これは非常に重要な体験だった)、それに加えて学生時代に浴びるようにたくさんの絵を見たことが、現在まで続く美術好きを決定的なものにしたように思う。バブル崩壊後しばらくすると、どの百貨店もいそいそと文化事業から撤退し、次々と自分たちのミュージアムを閉鎖してしまった。昨今ではバブル期は戯画的に描かれることが多いけれど、文化的には日本人に多くの「本物」を見せてくれた良い時代だったと思う。もちろん、その本質を享受するだけの知的成熟が全体的に不足していたということは否めないけれど。

大丸ミュージアムKOBEは、そうしたデパート・ミュージアムの関西における生き残りだ。いや、おそらく神戸という土地で商売する百貨店としての誇りをもって、この不況の時代でも文化事業に一定の力を注いできたのだと思う。お気楽な企画もしばしばやるけれど、採算を完全に度外視した力の入った企画が見られることも多い。そしてこの「よみがえる幻の壁画たち レオナール・フジタ展」もそのひとつ。

「乳白色」で有名な20年代のフジタではなく、30年代の壁画大作や、戦後にフランスに渡ってからの生活、そして最後の作品であるランスの「平和の聖母礼拝堂」をテーマにした展覧会。再現されたアトリエも面白いが、一番の目玉は1928年に描かれた4点の大作壁画「構図」と「争闘」の同時展示だろう(「最後の日本公開」というのが謳い文句)。20年代のフジタの集大成とも言われるこの大作からは、確かにギリシャ・ローマ的群像表現という西洋美術の根源に、日本人としてどこまで迫れるかというフジタの意気込みが感じられる。緻密で周到な人物配置による、4枚を並べたときに作られる構図の見事さ、それにもかかわらず細部に迫ったときの筆の情感の豊かさ、細やかさというところにフジタの出した回答が見えるような気がする。ただ、この筋肉表現はやっぱり僕にはわからない。フジタが編み出した描法は、解剖学的な肉体描写とは根本で合致しない点があるのではないだろうか。しっとりして滑らかな肌の表現は悪魔のように魅力的だけれど、盛り上がる筋肉には生気が感じられない。寝転がる猫の毛の柔らかさ、愛くるしい表情に比べると圧倒的な差がある。なお、「争闘」の何人かの人物が柔道技をかけているのが面白い。

去年巡回した「没後40年 レオナール・フジタ展」(関西に巡回しなかった・・・怒)の関連企画らしいが、フジタ好きにはやはり見逃せない展覧会だと思う。図録はすでに完売。もっと早く行っておけばよかった。

28日まで。

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ラトヴィアの艶女姉妹

Img014今年は美人ヴァイオリニスト・シリーズでいきたいと思います。さっそく、ルノー・カピュソンの彼女としても知られる(そんなことはないか)美人ヴァイオリニスト、バイバ・スクリデのコンサートに行ってきました。妹のピアニスト、ラウマとのデュオ・コンサートです。僕にとってはもちろん初めての生バイバです。アーティスト・フォトやCDジャケットでしか容姿を知らなかったので、「ラトヴィアの妖精」みたいな可憐な透明感溢れる姉妹がステージに現れるのかと思っていたら・・・んー、確かにキレイですが、いや、おふたりとも想像以上に豊満な美女でした。とくにラウマちゃんが・・・。いや、不純な気持ちで音楽を聴いてはいけませんね。今日は非常に意欲的なプロです。

(後日追記:通りすがりさんのコメントにありますように、カピュソンは2009年春にフランスのテレビのニュースキャスターと結婚したようです・・・)

2010年1月24日(日) ザ・フェニックスホール

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第3番 変ホ長調 作品12-3
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
ドビュッシー:版画
プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ヘ短調 作品80

バイバ・スクリデ(ヴァイオリン)
ラウマ・スクリデ(ピアノ)


デュオのソナタを2曲、各人のソロを1曲ずつ。しかも2曲のソナタはどちらもヴァイオリンとピアノが絡み合う難曲です。ただのヴァイオリン・リサイタルではなく、ヴァイオリンとピアノの両方を対等な立場で聴かせようという意図が込められたプログラムと見ました。

スターターのベートーヴェンから姉妹らしく息のあったプレイを聴くことができます。第1楽章の速いユニゾンのパッセージが大好きなのですが、さすがにバッチリ。バイバは1725年製のストラディヴァリウス「ウィルヘルミ」を使っています。このストラディヴァリ晩期の特徴があるちょっと黒っぽい楽器は、高音に輝かしさがあるだけでなく、非常に低音が豊かで、僕の好きなタイプの音。バイバの弓をしっかりと弦に吸いつかせる奏法も気に入りました。

バルトークの無伴奏は、近年若い世代のヴァイオリニストが頻繁にプログラムに入れるようになったとはいえ、やはり技術的にはかなりの難曲です。どの奏者もかなり集中して演奏を始めますし、バイバも同じでした。しかしその集中力を音楽の求心力として見事に弾ききっていたのが凄いところで、技術的にはやはり見事。前半は多少力技で持っていくところも散見したのですが(この曲の実演ではほとんど誰でもそうなる)、後半はかなり余裕でした。「プレスト」など素晴らしい。ただ、左手は完璧ですが、この曲のレヴェルまでくると右手にもう少し工夫があるとさらに音楽世界が広がるか?という感じはします。

休憩を挟んで後半はラウマのソロ。このドビュッシーは僕にはいまいちでした。「パゴダ」はテンポを揺らすのがロマン的すぎる気がするし(もっとアルカイックな感じで聴きたいところ)、全体的に響きをペダルで混ぜ過ぎのように思います。ゴージャスではあったのですが、個人的にはドビュッシーにはもっとクラリテが欲しい。

そしてプロコフィエフ。第1楽章は(おそらく第2楽章との対比のため)やや抑えた音量でしたが、重音のパッセージの盛り上がりの部分ではもうちょっと出しても良かったかも(ここはその方が悲劇的に伝わる)。ノン・ヴィブラート奏法もさほど活きてはいなかった。しかし例の「墓場に吹き渡る風」はラウマの音色も素晴らしかったと思います。ここで抑えた分、第2楽章はかなりの大暴れ。まさに「アレグロ・ブルスコ」で、弓の毛を切りながら(どの奏者もこの楽章ではだいたいそうなりますが)の熱演となりました。第3楽章の幻想味もよかったし、第4楽章はやはり姉妹ならではの息の合い方が絶妙。そして「風」が回帰してくるところはテンポが落としてあり、この解釈はとても好きです(この方が切なく聴こえるので)。非常に充実した演奏だったと思います。アンコールはクライスラーの「愛の喜び」。シリアスな音楽のあとの軽い演奏で、口直しとしてとても気持ち良く聴けました。

感想としては、この人はまだまだ伸びそう。多くのコンクールに入賞しているので、もう完成したヴァイオリニストのように思っていたのですが、解釈の面ではまだ若さを感じさせるところがありました。競争の激しいソリストの世界で生き残っていくのは大変だと思いますが、応援したいものです。

ラヴェル:ヴァイオリンソナタ

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音楽の「場」ということ

2010011517chirashi1僕は関西出身ではないし、昔からの親しい知り合いがこちらに住んでいるわけでもない。震災のときには東京に住んでいて、早朝からのニュースを茫然と見ていた。だから、被災した人たちの思いを十分に理解できるという自信は全くない。しかし、大阪に住んで様々な機会に(主に仕事で)被災者の話をきくうちに、震災という経験がどのようなものであったか、その経験の重みを感じることは多くなった。震災という出来事がひとりひとりの人生に与えた影響は大きい。それは強く、心の中ではいまだに生々しい。

2010年1月16日(土) 兵庫県立芸術文化センター大ホール
兵庫県立芸術文化センター管弦楽団 第30回定期演奏会

ヴェルディ:レクイエム

指揮:佐渡裕
ソブラノ:並河寿美 メゾ・ソプラノ:林美智子
テノール:松本薫平 バリトン:成田博之
合唱指揮:清原浩斗
合唱:オープニング記念第9合唱団、大阪ヴェルディ特別合唱団
演奏:兵庫芸術文化センター管弦楽団


あまりに音楽がポータブル化してしまった現代ではつい忘れがちだが、本来音楽を聴くという行為は「いま―ここ」という「場」の経験である。録音技術の発達はこの経験のあり方を大きく変容させてしまったが、近代のクラシック音楽という芸術形式はこの「場の共有」を大きな前提として発展してきたものだ。どういう「場」で演奏されるか、ということがクラシック音楽を聴くという経験の本質的な部分を占めていると僕は考える。今回の演奏もそれを強く感じさせるものだった。

感想を正直に書くと、前にも感じたのだがこのオケは僕が普段聴いている在阪オケと比べると技術的にやや見劣りする。ミクロン単位で合わせなければ凄味が出ないところがそうなっていないし、全体の鳴り方がパワー不足だ。4人のソリストは悪くはなかったが、ヴェルディらしい声の魔術を感じさせてくれるほどではなかった。ただ、合唱は素晴らしかったと思う。この音楽への真摯な向き合い方がまっすぐに伝わってきた。また、佐渡の指揮は非常に切迫した表現を求めているところがあり、それはヒリヒリするぐらい伝わってきた。死者を思う祈りの表現も深く重く響いた。しかし、音楽をそういう方向にもっていっているのは、会場の聴衆を含めたこの「場」なのではないか?

たとえば、「怒りの日」の大音響の中で合唱が、

怒りの日、その日は、
ダヴィデとシヴィッラの証しのとおり、
世界を焔の中で溶かしてしまうだろう。


と叫び、「リベラ・メ」の冒頭でソプラノが、

主よ、永遠の死から私をお救いください。
天も地も揺れ動き、
火によって世をお裁きになる
その恐ろしい日に。

と語るとき、この地を襲った震災の光景(聴衆の大部分にとってはそれは自分自身のリアルな経験でもある)を誰しも思い起こすだろう。そして、聴衆はこの祈りの歌を自分にとって名前のある特定の死者に向けた追悼の音楽として聴く。そのとき、この場で鳴り響くヴェルディのレクイエムは単なる音楽以上のものになる。それは演奏が良いとか悪いとか、そういうことを無意味にしてしまうような経験だ。こういう「場」で音楽を経験するということは、音楽を聴くということの本質はどういうことなのか、ということを改めて考えさせてくれる。

アンコールはバーンスタインの「キャンディード」より終曲「Make Our Garden Grow」。これもまた、力強い復興のイメージとして会場の人々の心に響いたことと思う。

震災15年となる17日の演奏はどうだったのだろうか。

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音楽を言葉で表現するために

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書

このブログというスペースで、僕は音楽を聴いた感想(など)について文章を書いている。ブログにする前から自分用のメモとしては書いていたのだが、それを書き始めた理由は、音楽によって生じた微かな心の動きを忘却の彼方に置き去りにしてしまうことなく、言葉として定着させることで曖昧な印象を確かなものにし、記録として残しておきたいと思ったからだった。インターネット上のブログにしようと思ったのは、コンサートなどの共時的な「いま‐ここ」体験をインターネット上で共有することができるということがわかったからだ。また、いちおう読む人を想定して書くことによって、自分の記述に一定の客観性や緊張感がもたらされるという効果も期待していた。まあ実際にやってみてわかったのは、ブログを書くなどということは暗黒の虚空に向かって空しく吠えるようなもので、読み手などというのは存在しないも同然ということだったのだが。

しかし実際に書いてみて思ったのは、音楽について誠実に書こうとすることはやはりそれなりの技術や方法論を必要とするということだった。いろいろな書き方を試してみたし、うまくいったこともあればそうでないこともある。今でもどのように書けば良いのかわからないし、音楽について書くことはしばしば非常に悩ましい。文章のプロではないので気楽なものなのだが、プロでないからこそ真剣に時間をかけて探究できるという側面もある。僕がいつも考えるのは、よりよく書くためにはよりよく聴かなくてはいけないし、よりよく聴くためにはその音楽についてより深く学ばないといけないということだ。その学びに終わりはないが、深く学んだ上で書かれた文章には、人を納得させられるだけの説得力があることが多い。あと、抽象論はやめようということもある。音楽から受けた抽象的なイメージを自分なりの言語イメージに変換していくことは大事なのだが、わかったようなわからないような一般論や抽象論に入っていった瞬間に、音楽を語る言葉は無様に死んでいく。要は、音楽が自分の心に与えた作用を外から眺めて、いったん解体して、言葉として組み立て直さないといけないのだが、これは決して簡単なことではない。もちろんそれと同時に、その音楽についての一定の知識を踏まえていなければいけないということもある。

こういう問題意識を持った人間にとっては、この本は非常に啓発的だった。どのようにしたら「よりよく聴く」ことができるのか、そしてそれを言葉として他者と共有することができるのか、ということが著者の問題意識となっている。社会の至る所で音楽が溢れかえっているにもかかわらず、いやあるいはそれだからこそ、音楽を「聴く」ことはどんどん難しくなっているように思われる。しかしそれでも音楽は人の心を確実に打つ。音楽の力を信じる音楽好きの人たちのために、語りにくいテーマをじっくり考えながら言葉にした労作だと思う。

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硬く滑らかなエロティシズム(卵の殻のように。)

Img013いま、兵庫県立美術館では「ジブリの絵職人 男鹿和雄展」をやっている。なかなか盛況のようである。それはいいのだが、もしジブリを観に行ったならば、ついででいいから、ぜひ常設展(コレクション展)の片隅でやっている「山本六三展 幻想とエロス」にも足を運んでみることをおすすめする。あ、でもお子様は不可。なぜって、そりゃあ。

僕が山本六三(やまもと・むつみ、1940‐2001)を知ったのは生田耕作訳のバタイユ「初稿 眼球譚」の挿絵だった。60~70年代の日本の前衛芸術の雰囲気を醸し出しつつも、それにとどまらない不思議な魅力に溢れる作品だ。でも、この人が神戸在住だということは、この展覧会の告知を観るまでは全く知らなかった。

この小展覧会では、初期の習作から晩年の油彩画に至るまでおよそ80点が展示され、この人の画業が一望できるようになっている。私が好きなのはやはり60年代から70年代にかけての銅版画(エッチング)。独学で始めたというのだから凄いものだ。細い線を連ねて紡ぎだされる、幻想的かつ暗黒のエロス。しかしそこに情念的な濁りはなく、どこか即物的(あるいは幾何学的)で、解剖学教室の戸棚に置かれた骨格標本のようにからりとしている。澁澤龍彦が好んだというのも十分理解できる作風だ。

僕は知らなかったのだが、80年代からはオルフェウス、スフィンクス、イカロスなどを題材にした油彩画が画業の中心だったらしい。古代ギリシア的なモチーフによるこれらの作品は、少年少女愛、同性愛、アンドロギュノス的なエロスを内包するもので、非常に妖しいオーラを放っている。こうしたテーマの書籍の装丁や雑誌の特集号には欠かせない美術家となっていたことが、今回の展示作品からもわかる。僕はこの作家を70年代までの硬質な銅版画と結び付けて考えていたので、意図的にマニエリスティックなこれらの作品は意外だった。しかしむしろ多くの読書人にとっては、こちらの方が「山本六三」のイメージとして流通しているのかもしれない。展示解説では19世紀末の象徴主義と結び付けられており、確かに図像としてはそう感じられる部分もあるものの、そういう既存の美術史的文脈には回収できないような、20世紀末ならではのエロス表現が意図されているようにも思う。

それにしても早逝である。没後の本格的な回顧展は昨年ようやく開かれたらしいし、今後改めて評価が進む作家だろう。決してメインストリームではないが、無視できない不思議な存在感がある。

3月14日まで。

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再発見される「中国の時代」

1421―中国が新大陸を発見した年 (ヴィレッジブックス)
ギャヴィン・メンジーズ(松本剛史訳)
「1421 中国が新大陸を発見した年」ソニーマガジンズ


ずっと前、たぶん出版されてすぐ買った本なのだが、長らく放置していて、ようやく読んだ。だから本当はこの文庫版ではなくハードカバーで読んだ。しかし、もうハードカバーは絶版らしくてアフィリエイトの画像がない。もしかしたら文庫版には新しい情報が追加されたりしているかもしれないが、それはわからない。

タイトルの通り、鄭和艦隊の第6回航海のときにその艦隊が様々なグループに分かれて世界を探検しつくしていたという話。著者は歴史学者ではなく、英国海軍で潜水艦の艦長までつとめた人物だというところが面白い。大航海時代以前の世界地図、世界各地に残る伝承や遺跡などから、明時代の中国がヨーロッパ人以前に世界を探索しつくしていたという説を唱えている。著者はこの本の刊行後もインターネットで追加情報を公開しつつ自説を展開、新刊も出ているらしい。

大航海時代のヨーロッパ人が初めて世界を「発見」したわけではないというのはもはや常識だろう。それ以前に中国人による「大航海時代」があったいう指摘も別に新説ではないが、ここまで大規模なものだったという壮大なストーリーは斬新で、読み応えのあるものだ。しかしながら、それをすべて鄭和艦隊に帰する本書の議論にも少々無理なところがあるように思える。ヨーロッパ中心主義的な世界史の記述では無視されてきた「中国の大航海時代」の痕跡が世界中に残されている、というのが正しい理解だろう。著者が傍証として挙げる様々な証拠の中にはかなり強引なものもあり、すべてがこの通りに受け取れるわけではない。訳注で控えめに指摘されているように、多くの史料が孫引きのため誤って理解されている部分も多い。アカデミックな立場からすれば、読み物としては面白いけれど、学問的な裏づけはない、と一蹴されてしまうかもしれない。本書の内容は、多少割り引いて考えなければならないものであるのも事実だ。

しかし前述したように、実際に世界の海を航海した経験者ならではの大胆な発想は、すでに部分的には知られていたこの「中国の大航海時代」の規模をさらに拡大して考えることができるのではないか、と思わせるだけの説得力がある。その意味で、今後の著者の研究がどのように展開していくのかを知りたいと思わせる(インターネット上のサイトと連動しているのが現代らしいところ)。本としては、様々な古世界地図と世界中の地名が出てくるだけに、もっと図版や図による解説が丁寧でもよかったかもしれないと思った。

それにしてもやはり大きなポイントは、多くの人がすでに指摘している通り、中国が国際的に発言力をどんどん増している中で、ヨーロッパの側からこういう本が出てきたということだろう。この本で書かれていることが歴史的事実であるかどうかということとは全く無関係に、この本がいま出版され、世界中で読まれているということは、まさに時代の象徴であると思う。

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