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CGスペクタクルの極致

Poster「2012」(ローランド・エメリッヒ監督、アメリカ、2009)を観る。あの「インディペンデンス・デイ」「デイ・アフター・トゥモロー」でも有名なエメリッヒ監督が、「もうこれ以上壊すものはない」と言ったとか言わないとか、大迫力のディザスターCGの連続が視覚的興奮をもたらす。大地は割れるわ、火山は大爆発するわ、巨大津波は押し寄せるわ、なにしろ人類滅亡の日なのだからどうしようもない。さて、この作品を観に来る人はとにかくこのCGが見たくて来るのだろうから、この作品にそれ以外のものを求めても仕方がない。 描写の科学的根拠がどうのとか、ストーリーの倫理性がこうのとか、言うだけ野暮というものだろう。個人的には、「インディペンデンス・デイ」のアメリカ中心主義的な政治的メッセージに比べたら、偽善的ではあるもののだいぶマシなものになっていると思う。とはいえ、これはハリウッド・エンターテインメント。壮大なヴィジュアル・エフェクトに酔い、ヒューマン・ドラマに涙すればそれでいいのだ。DVD時代に映画館で観る意味のある映像表現という観点でも面白い。

(追記:01/01/2010)
とは書いたものの、日が経つにつれ、映画の内容が心の中にひっかかったトゲのように思い出される。サバイバルする人たちが政治的に問題にならないように巧みに配役されているのはわざとらしいが、まあいいとしよう。しかし、これだけの人類の大量死(まさに「メガデス」と形容するにふさわしい事態)の後に成立する社会が、その死への何の思いもなしに、新しい社会を築いていけるとはとても思えない。その絶望の重さは、新しい世界の成立すら危うくするようなものだというのが現実だろう。もちろん、ハリウッド・ストーリーとして最後は新たな希望に向かって進まなければ、観客がカタルシスを得られないのは当たり前だ。だから映画としてはこれでいいのだが、シリアスに考えるとどうもそれがひっかかる。まあ、上でも書いたようにそういうことを言うだけ野暮なのだが・・・。ちなみに、箱舟が最後に喜望峰に向かうのは、人類の起源はアフリカであるということにひっかけたお遊び。

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ウィーンの記憶

Img012今年2009年は日本とオーストリアが修好通商条約を結んで140年という記念の年に当たり、「日本オーストリア友好年」の催しが各地で開かれています。私の今年一番の大仕事もこれに関わっていて、今年の夏は2回もオーストリアに行ってしまいました。ハプスブルク家やウィーンに関係した展覧会も多く、全国を巡回しているこの展覧会もそのひとつといえるでしょう(大阪会場はサントリー・ミュージアム[天保山])。ウィーン・ミュージアムのコレクションを中心とした展覧会。クリムトとシーレを前面に打ち出してはいますが、展覧会の内容としてはウィーン世紀末の絵画(商業美術も含む)を俯瞰することで、当時のウィーンの美術界の状況を示そうとしたものということでしょう。派手な展覧会ではありませんが、ほどよい作品数でゆっくり見ることができます。シーレ好きの私としては、肖像画「アルトゥール・レスラー」を見ることができて嬉しかったのと(これを描いてもらって喜んだレスラーは相当進んだ感覚の持ち主であったに違いない)、マックス・オッペンハイマーが描いたシーレの肖像の手指がシーレの絵そのままに長いのが印象に残りました。オスカー・ココシュカの絵本「夢見る少年たち」も素晴らしい(これは絵本の形式でぜひ読んでみたいものです)。これまで、ウィーン工房の絵葉書はきれいだとは思ってもそこまでの執着はなかったのですが、若きココシュカのスタイルには非常に魅了されました。

日本の美術館でこれらの作品を見ていると、自分の中のウィーンの記憶、あの都市の持つ魅力的なアトモスフェアが微かに、ゆっくりと立ち上がってくるのを感じます。もう一度ウィーンに行って、あの町の空気の中で、これらの美術作品を見てみたいという思いにとらわれるのです。これらの絵は、ひとりひとりの作家の個性の表現であると同時に、ウィーンという都市からの贈り物であることに改めて気付きました。

12月23日まで。

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ゲルギエフを追っかけた

Ddba0089df47b6aa32eall1といっても、大阪公演が良かったので東京まで別プロを観に行ったというだけの話で、別に熊本→大阪→広島→福岡→名古屋→東京→札幌→所沢とツアーしたというわけではありませんので、あしからず。それにしても、公演ルートを確認すると相変わらずの強行軍ですね・・・。

さて、前にアバド/ルツェルンが来日したときにも大阪からサントリーホールに駆けつけましたが、あれは転勤前に東京でチケットを買ってしまっていて、しかもチケット代がバカみたいに高かったので、とても捨ててしまうわけにはいかなかったからです。往復の新幹線代のことも考えると、しがないサラリーマンには東京まで来日オケを観に行くなどフツーはできません。しかし今回は自分に特別にご褒美を出しました。今年はよく働いたし、なによりも大阪で見たマリインスキーが本当に上手になっていたからです。

ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団

2009年11月23日@ザ・シンフォニーホール(大阪)
チャイコフスキー:序曲「1812年」 作品49
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番 ヘ短調 作品10
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 作品64


最初に驚いたのはオケが対向配置になっていたことでした。ネットで調べてみたら、去年(2008年)にロンドン響を振った来日公演の時にすでに対向になっていたらしいですが、ついにマリインスキーまで対向にしてしまったのですね。もはや対向配置は世界の主流になりつつあるのかもしれません。この日の弦構成は12・11・10・8・7だったと思います。ゲルギエフは右手に指揮棒を持っていますが、左の手指は相変わらずひらひらとゆらめき、このオケからダークでパワフルな「ロシアの音」を引っ張り出してきます。

「1812」はもちろん爆演。実演でこの曲を聴いたのは本当に久しぶりですが、大砲のところは大太鼓で、大きさの違う2本のバチで前打音をつけるように叩くということを今回初めて知りました。ショスタコの1番は、ピアノやティンパニのソロといったこの曲のモダニズム的な音響実験の側面を強調する一方で、革命家や民謡といった素材の民俗的な味わいをも強く打ち出した演奏。この曲をロシア・アヴァンギャルドの潮流の中に位置づけようとする解釈と聴きました。そしてチャイコ5番はゲルギエフは流石に暗譜で振ります。その演奏はこれまでの実演よりもさらに主観的。速いパッセージは奔流のように駆け抜けたかと思うと、ためるところはじっくりとためて、美しい旋律を本当に夢のように輝かせる。そして大爆発ではアドレナリンが一気に噴出するようなエネルギーがほとばしる。音楽で感情がもっていかれるという、なんとも幸福感に満ちた体験をまたしても味わいました。アンコールは歌劇「エフゲニー・オネーギン」のポロネーズと、バレエ「眠れる森の美女」のワルツ。

私は2006年、2007年、2009年とこのコンビの来日公演を聴いてきているのですが、聴くたびに明らかに上手くなっているのがわかります。2006年のときには聴いた会場が悪かったこともあり、オケの「鳴り」が悪いことにびっくりしました。確かにロシアのオケらしい音色の魅力はあるけれど、そこまで賞賛するほどの演奏だろうか?と正直思いました。しかしながら2007年はアンサンブルの精度が抜群に向上し、素晴らしいショスタコーヴィチを聴くことができました。そして今回はさらに演奏の完成度が上がっていると感じます。もしかしたらこのオケは現時点が音楽的に最高の状態なのかもしれないと思うと、東京のストラヴィンスキー・プロを観に行くという誘惑には勝てなかったのです。

2009年12月2日(水)@サントリーホール(東京)
ストラヴィンスキー:バレエ組曲「カルタ遊び」
ストラヴィンスキー:ピアノと管弦楽のための「カプリッチョ」
(ピアノ独奏:アレクサンドル・トラーゼ)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」


「カルタ遊び」はストラヴィンスキーの新古典主義時代を代表する作品ですが、日本ではあまり人気がありません。ゲルギエフは冒頭から猛烈なスピードで攻めまくります。アンサンブルにはやや乱れもあったものの、ワルツの描写には雰囲気があり、いかにも歌劇場のオケらしい解釈だっと思います。しかし観客がこの曲にあまり興味を持っていないという空気が場に充満していました。まあ仕方がないのですが、バレエのストーリーを踏まえて聴けば非常に面白い音楽なので、ちょっともったいないです。「カプリッチョ」はトラーゼの独壇場。初めてナマで聴くトラーゼは意外にも(あるいは「予想通り」と書くべきか)典型的な巨体のロシアン・ピアニストでした。古代の地球を恐竜が闊歩しているようなこの曲にはぴったりで、猛烈な打鍵はヴィジュアル的にも迫力満点で、お客さんも大喜び。アンコールとしてスカルラッティのニ短調のソナタを弾いたのですが、最後のリピートの部分を消え入りそうな最弱音でゆっくりと弾いたりする、こういうのは私はちょっとやりすぎというか、受け狙いに感じてしまって駄目。大喝采だったけれど・・・。そして「ハルサイ」。「春の兆し」の前のピツィカートのテンポが速くてびっくり、そのスピードのまま「ガガガガ」と来るので衝撃的です。そして「春の輪舞」では一転してひきずるようなヘヴィー・スロー・テンポ。この極端な対比が全くいやらしい感じではなく、実に自然に聴こえてくるのがゲルギエフの凄いところで、このあたりは録音よりも遥かにダイナミックな演奏になっていました。「生贄の踊り」は録音と同じく、ティンパニの打ち込みの位置が違ったりピツィカートの採用があるマニアックな版を使用。そしておなじみの最後の「タメ」、あまりにも長かった・・・。アンコールはシチェドリンの管弦楽のための協奏曲第1番「お茶目なチャストゥーシュカ」より。ジャズのランニング・ベースが超高速で走り回る大変な難曲で、とてもアンコールでやるような曲には思えませんでした。

全体的にマッシヴな、音楽が音の塊としてぶつかってくるようなストラヴィンスキーでした。ブーレーズの精緻で分析的な響かせ方とは対照的な演奏で、やはりこの野蛮さがゲルギエフの魅力なのです。素晴らしい「ハルサイ」を聴けただけでも、東京に行って良かったと思いました。それにしても不況なのか、来日を重ねるたびにお客さんの数が少しずつ減っているようなのが悲しい。2006年のときは満席でダフ屋も出ていたのに・・・。

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