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作家にとっての「現実と虚構」

IN
桐野夏生「IN」集英社

出世作「OUT」に対応するかのようなタイトルを持った、桐野夏生の新刊。とは言っても内容として「OUT」の続編になっているわけではなく、まったく別の物語である。しかし著者本人が語っているように、「OUT」で世に「出た」著者の今の思いが「IN」なのだろう。自分自身に向かうこと、作家という人間の内面に入っていくこと。

複雑な構造を持った小説である。中年の人気女性作家・タマキは「淫」という小説を書くために、すでに故人となった作家・緑川未来男が昭和48年に上梓した「無垢人」という私小説の背景について取材を進めている。小説内小説として登場する「無垢人」は、緑川自身をモデルにした「私」と浮気相手「O子」、実在の妻「千代子」の凄絶な三角関係を赤裸々に描いた作品である。小説内で重要な役割を担いながらも、その名前すら明らかにされない「O子」とはいったい誰なのか。タマキはその謎に迫るうちに、緑川の複雑な女性関係の渦の中に入り込んでいく。しかしその取材の最中もタマキの頭を離れないのは、つい先日別れた不倫相手、青司のことだ。青司とタマキは名物編集者と担当作家という関係として、互いに家族がある身でありながら公然と不倫関係を結んでいた。その激しい愛憎の記憶が、タマキの中で取材内容とオーバーラップしながら回想されていく。そして取材が核心に迫っていったとき、タマキのもとに突然青司についての知らせがもたらされる・・・。

描かれているのは社会的に許されない激しい恋愛体験であり、身も心もボロボロになってもやめられない、腐臭を放つようなドロドロの愛憎が「生きる」ということの本質に深くかかわっているということだ。多少なりとも同じような体験をしたことのある人間であれば、強く共感できる描写に溢れている。その意味で本書は非常にエモーショナルな作品だ。だがこの作品の本質的なテーマは、作家にとっての現実と虚構という問題である。緑川の「無垢人」は私小説、すなわち現実の緑川の生活をモデルにした小説と考えられているが、謎の「O子」の正体を探るうちに、小説に書かれたことのどこまでが現実でどこからが虚構なのか、タマキにも読者にもわからなくなっていく。そしてこの「作家が書いたものは事実とは限らない」というテーマは、物語終盤でタマキが千代子から一通の手紙を渡されることで大きくクローズアップされる。これがこの物語の謎を解き明かす真実であるのかと思いきや、果たしてこの手紙自体が本物であるのかどうか、読者はさらなる疑念に包まれることになるのだ。そしてその読者の疑念は、夫の死後作家となった千代子が、夫の遺した日記を書き直し続けているという衝撃的なラストによってさらに深められ、読者は様々な憶測を抱えたまま藪の中に取り残されてしまう。

この現実と虚構のテーマは、さらにメタレベルでも展開している。緑川未来男の「無垢人」という小説内小説は島尾敏雄の「死の棘」がモデルであり、千代子とは島尾ミホのことだろうということは誰でも想像がつく。そして桐野夏生がその取材をしていたことも熱心なファンなら当然知っているから、読者は必然的にタマキという主人公を桐野と重ねながら読んでいくことになる。だから、描かれた不倫体験は桐野の現実の体験に基づいているのか、それとも全くの虚構なのか、読みながら思わず考えてしまう仕掛けになっているというわけだ(雑誌連載中はなかなかスリリングな読書体験だったことだろう)。いくら著者が「私小説は書かない」と宣言したところで、その宣言すらひとつの戦略であるように思えてきてしまう。様々なレヴェルで現実と虚構についての「裏読み」を読者に求めてくる、非常に知的なたくらみに満ちた小説でもあるといえよう。さらに一歩進んだ桐野ワールドを堪能できる秀作だと思う。面白い。

ところで、私は前作の「女神記」をあまり評価していないのだが、本作を読んであれが「死の棘」の取材の影響下に書かれたものであると気づいて、なんだかとても納得した。改めて「死の棘」を読み返してみたら、「トシオ」の浮気に対する「ミホ」の異様な執着には、奄美の祭事を司る「ノロ」の家系に生まれ、巫女を継承するはずだった島尾ミホさんの神秘的なパーソナリティが強く反映されている。それが「古事記」のパラフレーズである「女神記」の発想の原点となっていることは明白だ。桐野作品としてはやはり今作のように現実の人間を細かく描き込んでいく方がはるかに面白いと思うが、「女神記」の基本的なモチーフが「死の棘」におけるトシオとミホの関係にあるとわかると、あの作品を読み解けた感じがした。それにしても「死の棘」は不思議な小説だな。

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