« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

作家にとっての「現実と虚構」

IN
桐野夏生「IN」集英社

出世作「OUT」に対応するかのようなタイトルを持った、桐野夏生の新刊。とは言っても内容として「OUT」の続編になっているわけではなく、まったく別の物語である。しかし著者本人が語っているように、「OUT」で世に「出た」著者の今の思いが「IN」なのだろう。自分自身に向かうこと、作家という人間の内面に入っていくこと。

複雑な構造を持った小説である。中年の人気女性作家・タマキは「淫」という小説を書くために、すでに故人となった作家・緑川未来男が昭和48年に上梓した「無垢人」という私小説の背景について取材を進めている。小説内小説として登場する「無垢人」は、緑川自身をモデルにした「私」と浮気相手「O子」、実在の妻「千代子」の凄絶な三角関係を赤裸々に描いた作品である。小説内で重要な役割を担いながらも、その名前すら明らかにされない「O子」とはいったい誰なのか。タマキはその謎に迫るうちに、緑川の複雑な女性関係の渦の中に入り込んでいく。しかしその取材の最中もタマキの頭を離れないのは、つい先日別れた不倫相手、青司のことだ。青司とタマキは名物編集者と担当作家という関係として、互いに家族がある身でありながら公然と不倫関係を結んでいた。その激しい愛憎の記憶が、タマキの中で取材内容とオーバーラップしながら回想されていく。そして取材が核心に迫っていったとき、タマキのもとに突然青司についての知らせがもたらされる・・・。

描かれているのは社会的に許されない激しい恋愛体験であり、身も心もボロボロになってもやめられない、腐臭を放つようなドロドロの愛憎が「生きる」ということの本質に深くかかわっているということだ。多少なりとも同じような体験をしたことのある人間であれば、強く共感できる描写に溢れている。その意味で本書は非常にエモーショナルな作品だ。だがこの作品の本質的なテーマは、作家にとっての現実と虚構という問題である。緑川の「無垢人」は私小説、すなわち現実の緑川の生活をモデルにした小説と考えられているが、謎の「O子」の正体を探るうちに、小説に書かれたことのどこまでが現実でどこからが虚構なのか、タマキにも読者にもわからなくなっていく。そしてこの「作家が書いたものは事実とは限らない」というテーマは、物語終盤でタマキが千代子から一通の手紙を渡されることで大きくクローズアップされる。これがこの物語の謎を解き明かす真実であるのかと思いきや、果たしてこの手紙自体が本物であるのかどうか、読者はさらなる疑念に包まれることになるのだ。そしてその読者の疑念は、夫の死後作家となった千代子が、夫の遺した日記を書き直し続けているという衝撃的なラストによってさらに深められ、読者は様々な憶測を抱えたまま藪の中に取り残されてしまう。

この現実と虚構のテーマは、さらにメタレベルでも展開している。緑川未来男の「無垢人」という小説内小説は島尾敏雄の「死の棘」がモデルであり、千代子とは島尾ミホのことだろうということは誰でも想像がつく。そして桐野夏生がその取材をしていたことも熱心なファンなら当然知っているから、読者は必然的にタマキという主人公を桐野と重ねながら読んでいくことになる。だから、描かれた不倫体験は桐野の現実の体験に基づいているのか、それとも全くの虚構なのか、読みながら思わず考えてしまう仕掛けになっているというわけだ(雑誌連載中はなかなかスリリングな読書体験だったことだろう)。いくら著者が「私小説は書かない」と宣言したところで、その宣言すらひとつの戦略であるように思えてきてしまう。様々なレヴェルで現実と虚構についての「裏読み」を読者に求めてくる、非常に知的なたくらみに満ちた小説でもあるといえよう。さらに一歩進んだ桐野ワールドを堪能できる秀作だと思う。面白い。

ところで、私は前作の「女神記」をあまり評価していないのだが、本作を読んであれが「死の棘」の取材の影響下に書かれたものであると気づいて、なんだかとても納得した。改めて「死の棘」を読み返してみたら、「トシオ」の浮気に対する「ミホ」の異様な執着には、奄美の祭事を司る「ノロ」の家系に生まれ、巫女を継承するはずだった島尾ミホさんの神秘的なパーソナリティが強く反映されている。それが「古事記」のパラフレーズである「女神記」の発想の原点となっていることは明白だ。桐野作品としてはやはり今作のように現実の人間を細かく描き込んでいく方がはるかに面白いと思うが、「女神記」の基本的なモチーフが「死の棘」におけるトシオとミホの関係にあるとわかると、あの作品を読み解けた感じがした。それにしても「死の棘」は不思議な小説だな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

音楽によるダブル・イメージ

2009062f072f802ff0003980_20444948_2久しぶりに大阪センチュリー交響楽団の定期を聴きに行った。それはひとえに、プログラムにショスタコーヴィチの11番のシンフォニーが入っているから。ショスタコーヴィチのシンフォニーに関しては、5番以外はなかなかナマで聴く機会が増えない(だからこそショスタコーヴィチ専門のアマオケがあったりするのだろう)。在阪のオケのプログラムに入っているのを見つけたら、都合がつく限りはできるだけ聴きに行きたいと思っているのだが、そんな機会も決して多くない。だから今回はとても貴重なコンサートなのだ。それに、センチュリーという比較的小さい編成のオケがショスタコーヴィチをやるというのも面白い。

2009年6月18日(金)
大阪センチュリー交響楽団 第142回定期演奏会
指揮:沼尻竜典 会場:ザ・シンフォニーホール

グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品16
(ピアノ独奏:アンナ・マリコヴァ)
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」

グリーグのコンチェルトは遅めのテンポでじっくりと聴かせる演奏。私はこのオケの弦セクションの透明な音色が好きなのだが、こういう音楽には実にぴったりだ。ピアニストもコロコロと鈴のような音色を流麗に転がしていく。音楽監督の小泉さんのもとでドイツ・オーストリア系の音楽を中心に活動してきたこの団体ならではの、澄み切ってどこか神秘的ですらある抒情性を感じさせる好演。マリコヴァはアンコールでチャイコフスキーの「銀の精」(「眠れる森の美女」より、プレトニョフ編)をチャーミングに披露。

そしてショスタコーヴィチ。やはり12型という、この曲としては小さく感じる弦編成だ。しかし第1楽章の重苦しい弦楽合奏の表現力は抜きんでていたし、第2楽章の管弦打一体となった爆発的な大音響の展開でもパワー不足を感じさせない(あまりの暴力的な音響にアドレナリンが出た)、第3楽章の氷のようなヴィオラ旋律は深く心に沁み入り、第4楽章のコーダと最後の鐘の圧倒的な効果も素晴らしい。聴きどころ満載の充実した演奏だった。沼尻さんの激しいアクションからは、この曲にかける強い意欲が感じられて迫力満点。家で録音を聴いているだけではわからない、「ああ、こういう曲だったんだ・・・」という深い納得感があった。聴けてよかった。

1905年1月9日の「血の日曜日事件」を描いたとされるこのシンフォニーが発表されたのは1957年。前年の1956年には、第20回党大会でのフルシチョフによるスターリン批判が行われて同盟国に大きな衝撃を与え、これをきっかけにソ連支配を脱しようとしたハンガリーに対してソ連軍の侵攻が行われている(ハンガリー動乱)。このような状況下で作曲されたシンフォニーを「革命万歳」という単純な理解で語る人はもはや皆無で、作曲者は革命時の皇帝軍による発砲事件と当時の赤軍の軍事侵攻をダブル・イメージで重ね合わせているのだろうという解釈が現在では一般的だ。そしてそれは単なる体制批判というレヴェルを超えて、「ロシアはなぜ同じことを繰り返してしまうのだろうか?」というボリス・ゴドゥノフ的な問いに到達していると考えるべきだろう。第4楽章終盤、冒頭の「むかしむかし・・・」のテーマに戻って音楽が終わるかに思われたところで、いきなりファゴットが地の底を這いまわるような倍速旋律を奏し、壮絶なコーダが始まる。この部分は美しい「物語」を突き破って歴史の「はらわた」が噴出するようなグロテスクさに満ちており、作曲者の「イイタイコト」を端的に表しているように思える。そして最後に打ち鳴らされる2台の鐘は決して勝利の鐘には聴こえず、最後の審判の無慈悲な鐘の響きだ。

非常にアイロニカルな音楽。そしていつも思うのが、ショスタコーヴィチの音楽はアイロニーであることをわかるように演奏するよりも、真剣に「赤軍万歳!」と絶叫するような態度で演奏した方がよりアイロニカルに響く。真面目にやれば政治的に文句はつけようがないし、真面目にやればやるほど聴き手にそのアイロニーが伝わる。そこが生き残るために二重言語を使い続けたこの作曲家の面目躍如たるところだ。20世紀後半という時代を代表する作曲家のマスターピース。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

西洋絵画の死

Rothko_2少し前のことだが、「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展を千葉県佐倉市の川村記念美術館で観てきた。テート、川村記念、ワシントンのナショナル・ギャラリーなどが所蔵する、いわゆる「シーグラム壁画」が一堂に会した展覧会。決して行きやすい場所にある美術館ではないにもかかわらず、大きな話題となり、かなりの集客であったときいている。悦ばしいことだ。

抽象表現主義の作家の多くがそうなのだが、ロスコの作品も「体験」してみなければその真価はわからない。巨大な画面に取り囲まれた会場の部屋は、一種の瞑想空間と化す。まさにそれこそがロスコが望んだことだ。近づいてよく見ると、暗めの赤一色に見える画面が、何層もの絵の具の塗り重ねで作られ、実に豊かなニュアンスに富んでいることがわかる。色彩に包まれた鑑賞者のまなざしは、絵画の上でさまよい、ゆらぐ。その体験もまた不思議なものだ。神秘主義的な精神を強く感じさせるこれらの作品が、カバラ思想に関わっているのかどうか私にはわからないし、それがあまり作品の理解を助けるとも思えない。ひたすらこれらの絵から放たれているヴァイブレーションを浴びることだけが、ロスコに近づく道だと感じてしまう。しかし、これらの作品はやはりどう見てもフィリップ・ジョンソンの「フォー・シーズンズ」にかけられるようなものではないだろう。それはほとんどアイロニーだ。ロスコは描きながらこのプロジェクトの破綻をすでに感じ取っていたと私は思う。別室で展示されている、ロスコがノーマン・リード(当時のテート館長)にあてた手紙の数々も非常に興味深かった。

それにしても、ロスコの作品からどうしても「死」をイメージしてしまうのは、彼が両腕を切り開いて自殺したことを知っているからだろうか。「シーグラム壁画」を描いている頃のロスコはむしろ創作の絶頂期にあったといってもいいほどだが、その暗い赤はどうしても血の色のように見えてきてしまう。それが妄想だとしても、ギリシャ神殿から強いインスピレーションを受けて描かれた柱のような長方形の形態は、「崇高な滅び」のイメージを見る者に与えずにはおかない。そして晩年の「ロスコ・チャペル」に通じるような、黒の複雑なニュアンスで満たされた作品群からは、まぎれもない葬送のイメージが立ち現われてくる。

以前にお会いした藤枝晃雄さん(武蔵野美術大学)が、「タブローとしての西洋絵画の最終形態が抽象表現主義であり、そこで西洋絵画の歴史は終わった。そこから後はキッチュしかない」という趣旨のことをおっしゃっていた。ロスコの作品を見ると、その思いはますます強まる。彼は抽象表現主義の死、いや西洋絵画の死を、自らの死として引き受けたのではないだろうか。そして作品はいつまでも残る。画面からかすかな熱を放射しながら。

6月7日まで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Covered Beatles (6) Past Masters Volume One 編

「ビートルズのオリジナル・ソングを全曲違う人のカヴァーで集めることができるか」、これが Covered Beatles が追及しているテーマです。最初のときにも書きましたが、各アルバムがコンピレーションとして面白く聴けるということも重視しながら、有名なカヴァーはできるだけ紹介する、ビートルズによるカヴァーはオリジナル曲を紹介する、カヴァー・バンドからは基本的に選曲しない・・・といったルールでアルバムごとに探求を続けています。さて今回は「Past Masters Volume One」。主に前期のアルバム未収録曲が収録されていますが、オリジナル・テイクとのヴァージョン違いもあります。この企画でヴァージョン違いの曲の扱いをどうするかというと、喜んで前に選んだものとは違うカヴァー・ヴァージョンを紹介してしまいます。ひとつでも多くビートルズのカヴァー・ヴァージョンを紹介できた方が、ビートルズ好きとしては楽しいですから。それでは、さっそくそのヴァージョン違いから。

Reviewing_the_situation






1) Love Me Do / Sandie Shaw (from "Reviewing The Situation" 1969)

オリジナル・アルバムのときはパースエイジョンのカヴァーを選びましたが、このサンディ・ショウのヴァージョンも好きです。いかにもスウィンギン・シックスティーズという雰囲気が漂うサウンド、サンディーのちょっと気だるくて甘いヴォーカルが見事にはまります。コンピレーションのスターターとして申し分のない1曲。

Spontaneous_inventions






2) From Me To You / Bobby McFerrin (from "Spontaneous Inventions" 1986)

続いては声の魔術師、ボビー・マクファーリンによるひとりアカペラ・ライヴ・アルバムから。どうやったらひとりでこんなことができるんだろうという、驚異の「喉芸」です。ボビー・マクファーリンには他にも「Blackbird」や「Drive My Car」のカヴァーもあり、いずれも一聴に値する出来だと思います。

Please_please_me_acoustic_tribute






3) Thank You Girl / The Two Of Us (from "Please Please Me: An Acoustic Tribute To The Beatles" 2006)

カヴァー・ヴァージョンを見つけるのが難しい曲のひとつです。初期のB面曲だから仕方がないのですが、その中で最もマシだったのがこれ。ジャケで見る限り何とも冴えないおじさん2人組、そしてどうしようもなくベタなバンド名です。ニューヨークを拠点に活動しているベテラン・ギタリストたちとのことで、原曲をほぼそのままアコースティック・ギター・デュオでカヴァーしています。ただそれだけなのですが、演奏はうまいし、原曲への愛はよく伝わってくるので選曲。

A_swingin_singin_affair






4) She Loves You / Mark Murphy (from "A Swingin', Singin' Affair" 1965)

ビートルズを代表する超有名曲だけに、意外性のあるカヴァー・ヴァージョンを選曲したいと思います。そこでマーク・マーフィーの登場。クラブ・ジャズの世界で再評価され、現在再び大活躍中のジャズ・ヴォーカリストによる、60年代のクールなカヴァーです。ミディアム・テンポのスウィング・ジャズにアレンジされてるので、途中まではこの曲だとは絶対に気づきません。バックのバンドもグルーヴ感たっぷりで、クラブ・ジャズ・トラックとしても最高だと思うのですが、いかがでしょうか?

Boogaloo






5) I'll Get You / Giuliano Palma & The Blue Beaters (from "Boogaloo" 2007)

「She Loves You」のB面曲ですが、イタリアのスカ&レゲエ・バンドの爽快な演奏で聴いてみましょう。さっぱりとして実に気持ちのいい仕上がり。あまりにもスカのリズムがはまっているので、この曲にはもともとスカの要素があったのではないか?と思わず考えてしまいます。オー・イェー。

Green_is_blues






6) I Want To Hold Your Hand / Al Green (from "Green Is Blues" 1970)

またもや超有名曲の登場です。しかしこの曲のベスト・カヴァーは、誰が何と言おうとこのアル・グリーンのセカンド・アルバムに収められたヴァージョンでしょう。ビートルズの、あるいはこの楽曲の中にある「黒人音楽的な要素」を見事に抜き出し、曲全体をそのトーンで塗り替えてしまっている奇跡のような先祖帰りカヴァー。何度聴いても気持ちいい2分20秒、しかも曲が始まるのは13秒くらいから。短すぎる。

Seamless






7) This Boy / The Nylons (from "Seamless" 1984)

原曲もジョン、ポール、ジョージの三声コーラスが特徴的なバラードですが、これをカナダのドゥー・ワップ・コーラス・グループ、ナイロンズがカヴァー。このヴァージョンを聴くと、この曲の背後にプラターズやドリフターズといったドゥー・ワップ・コーラスの伝統があることがわかってくるから不思議。これもまた、ビートルズのルーツを意識させるすぐれたカヴァーのひとつでしょう。

Rhinestone






8) Komm, Gib Mir Deine Hand / Tiny Martin (from "Rhinestone" 2009)

原曲はビートルズによる「I Want To Hold Your Hand」のドイツ語ヴァージョン。そのカヴァーという激レアものです。この Tiny Martin という人についてはほとんど何もわからないのですが、CDはどうやらブルガリアの(!)インディーズから出ている模様。で、演奏の方はなんだかとっても不思議。冗談なんだか本気なんだかわからない低音の渋いヴォーカル、チープなようでもあるし凝っているようでもあるユーロ・ポップ風のバック・トラック。やっぱりよくわからないのですが、何だか耳に残る。困った。

It_was_40_years_ago_today






9) Sie Liebt Dich / The Trimatics (from "It Was 40 Years Ago Today: A Tribute To The Beatles" 2004)

これも「She Loves You」のドイツ語ヴァージョン。カナダで出たコンピレーションに収められているヴァージョンです。The Trimatics はスウェーデン出身の3ピース・バンドとのことですが、この演奏がやっぱりヘン。ウッド・ベースと太鼓によるポルカのリズム、訛りのきついドイツ語のヴォーカル。この雰囲気はどう考えてもクレズマー(東欧ユダヤ音楽)を意識しているとしか思えません。コンピレーションにはこの曲の後に「Blackbird」のドイツ語(?)ヴァージョンも収められていました。

10) Long Tall Sally / Little Richard
ビートルズによるカヴァー。原曲を聴くと、ポールのシャウトがリトル・リチャードのコピーであることがよくわかります。

If_you_can_believe_your_eyes_and_ea






11) I Call Your Name / The Mama's And The Papa's (from "If You Can Believe Your Eyes And Ears" 1966)

ママス&パパスのファースト・アルバムからの選曲。この曲のカヴァーとしては最も有名なもののひとつ。カントリーっぽいホンキー・トンク風ピアノも入って、ウエスト・コーストらしいリラックスしたムードが漂います。もちろんコーラス・ワークも聴きもの。

12) Slow Down / Larry Williams
ビートルズによるカヴァー。ラリー・ウィリアムズの原曲にはブラス・セクションも入り、よりR&B色の強い仕上がりになっています。

13) Matchbox / Carl Perkins
ビートルズによるカヴァー。オリジナルはカール・パーキンスによるロカビリー・チューンです。しかしビートルズ・ヴァージョンはリンゴが歌っているので何だか全然違う雰囲気。このリンゴのすっとぼけた味がビートルズの「狙い」だったのでしょう。

Funky_alien_booty






14) I Feel Fine / The Bacchus Brothers (from "Funky Alien Booty" 2005)

ヴェンチャーズのインスト・カヴァーも比較的知られていますが、それよりはこのバンドがとても面白い。サンフランシスコあたりを拠点にしている3ピースのインディー・バンドのようですが、リズムの躍動感が実にかっこいい(この乾いたスネアの音が大好き)。思わず腰が動いてしまう演奏です。コーラスでテンポ・チェンジするアレンジもひねりが効いていて耳がひきつけられます。原曲のアフロ・キューバンな持ち味を拡大解釈していくとこうなるのかもしれません。

10_to_23






15) She's A Woman / Jose Feliciano (from"10 to 23"1969)

この曲にはジェフ・ベックによる有名なカヴァーがあります(ジョージ・マーティンのプロデュースによる「Blow By Blow」収録)。それもトーキング・モジュレイターを使った面白い演奏で、どちらにしようかかなり迷ったのですが、考えた末にこのホセ・フェリシアーノのヴァージョンを選びました。このプエルト・リコ出身の盲目のギタリストはかなりたくさんのビートルズ・カヴァーを録音しています。その中でもこれは出色の出来。速いテンポのボッサで、後半の長い展開も聴きものです。

16) Bad Boy / Larry Williams
ビートルズによるカヴァー。再びラリー・ウィリアムズ。オリジナルは「Bad Boy」という相の手が入るなど、ちょっとユーモアが感じられるのですが、ジョンが歌うカヴァーはもっとストレートなロックン・ロール然としたもの。その感覚の違いが興味深いです。

The_bridge_school_concerts_volume_o






17) Yes It Is / Don Henley (from "The Bridge School Concerts, Volume One" 1997)

ニール・ヤングが主催する、養護学校のためのチャリティー・コンサートのライヴ・アルバムより。ドン・ヘンリーだけでなく、ギターにダニー・クーチ、ベースにティモシー・シュミット、コーラスにJ.D.サウザーも入った豪華メンバーによる演奏です。ドン・ヘンリーのハスキーなヴォーカルがこの曲によく合っているのに加え、やはりこの曲の魅力はコーラス・ワーク。素晴らしいハーモニーを聴くことができます。

Permanent_vacation






18) I'm Down / Aerosmith (from "Permanent Vacation" 1987)

コンピレーションの最後はエアロスミスに締めてもらいましょう。カヴァーとしてはソロに至るまでほとんど完コピに近い演奏ですが、スティーヴン・タイラーがこの曲を歌っているというだけで聴く価値のある演奏です。エンディングがフェイド・アウトでなくバシッと決まっているのもかっこいい。

これで「前期」は終了。9月にはビートルズの全オリジナル・アルバムのリマスター盤(しかもステレオとモノの両方!)がいよいよ発売になりますし、今年後半はまたビートルズが巷の話題になりそうですね。次回はいよいよ「Rubber Soul」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「1Q84」を読む

1Q84 BOOK 1 1Q84 BOOK 2
村上春樹「1Q84」(BOOK 1 & BOOK 2)新潮社

「アフターダーク」以来およそ5年ぶりとなる、村上春樹の長編新作(書き下ろし)。

物語構造 ‐ 「海辺のカフカ」との類似

一読して感じたのは、この物語が村上の近作長編「海辺のカフカ」「アフターダーク」といった村上の長編近作と類似した構造を持っているということだ。とくに「海辺のカフカ」とは次のような大きな共通点がある。

1)ふたつの物語が交互に進行する。最初はお互いに無関係のように物語は進行するが、やがて両者は接近していき、最後にはひとつの物語になる。これは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」以来、村上がしばしば用いる手法である。
2)それぞれの物語の主人公は、象徴的なレヴェルにおける「敵」と戦い、勝利を収める。しかしその代償として、ひとりの主人公は現実の世界で死を迎える。

主題として暴力を扱っていることも含め、「1Q84」は「海辺のカフカ」と非常によく似ている。おそらく村上はふたつの小説で同じようなことを言おうとしているのだ。しかし、ひとつだけ大きな違いがある。「海辺のカフカ」では、現実の世界の秩序が回復されることによって物語は収束していくのだが、「1Q84」では世界は変質した「新しい世界」のままで終わるのだ。物語の中で語られたいくつかの謎が未解決であることもあわせて、読み手は何とも言えない不安定な気持ちのままで放り出される。音楽でいえば、トニックがもたらされない感覚といえるだろうか。ここから、「この物語には続編があるのではないか(BOOK 3?)」という感想を抱く人が多いようだ。実際どうなのかは作者しか知り得ないことだが、私としてはこの小説はここで一応終わっていると考える。それはなぜか。この不安定なエンディングの感覚が、前作「アフターダーク」とよく似ているからだ。

「アフターダーク」は非常に実験的な小説である。映画のカメラのような視点の取り方もさることながら、物語の中で出て来た謎が何一つ解決されることなく、さらに何かが新しく始まろうとしているときに唐突に小説は終わってしまう。この「物語が終わらないうちに小説が終わる」というエンディングのかたちが、「1Q84」でも採用されていると私は考える。このエンディングが示していることは何だろうか。「物語が終止せず続いていく感覚」、それは、「ここから先の物語は、読み手が現実の世界で作り上げていってほしい」ということだと私は考える。私たちが生きる現実の世界も、常に新しく作られていく物語である。主人公がこの先に生きていく「新しい世界」は、小説を読み終わった後の読み手が生きる世界でもある。小説を読むことが現実からの逃避ではなく、現実に何らかをフィードバックする行為であってほしいという村上の思いが、この不安定なエンディングには込められているのではないだろうか。実はそのような思いは「海辺のカフカ」にも込められている。「海辺のカフカ」の最後の1行は、

そして君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている。

と書かれている。そして「1Q84」の最終章には、

これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は思った。(・・・)たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。

という言葉がある。ふたつの作品が到達する地点は極めて近い。ただ、「海辺のカフカ」は比較的伝統的な物語の力学に従って書かれているのに対して、「1Q84」はより現実の世界へのリファレンスが強いと言えるだろう。

主題 ‐ 現代社会における「信仰」と「セックス」

村上春樹の作風は「ねじまき鳥クロニクル」以降、大きく変化した。翻訳調の文体でシュールな物語が展開する初期の「ムラカミ・ワールド」から、より簡素な文体で日本社会の現実を描き出す近年の作風へ。それはしばしば「デタッチメント」から「コミットメント」への変化として語られ、そのきっかけとして地下鉄サリン事件を題材としたルポルタージュ「アンダーグラウンド」の執筆があったことはよく知られている。「1Q84」の主題は「カルト」と「性暴力」であり、「アンダーグラウンド」以来の「なぜ私たちの社会はオウムを生み出してしまったのか?」という問題意識が村上の中で発展的に継続して生まれたものといえるだろう。

「カルト」と「性暴力」という現象は、人間存在に深く関わっている「信仰」と「」セックス」という行為が、現代社会の中でねじれてしまったものだと考えることができる。現代においてはもはや「信仰」は青豆の意味を失ったお祈りぐらいの意味しかもたないし、「セックス」は愛を伴わないストレス解消の行為でしかない(天吾の年上の既婚者との不倫や、青豆の中年男ハンティングのように)。この倒錯した現代社会において、私たちはどのようにすれば「より良く」生きていくことができるのだろうか?それがこの小説で村上が描いていることだ。

この問題を小説として語る上で村上が重要な役割を与えているのが、「リトル・ピープル」という象徴的レヴェルの存在である(もちろんこれは、ジョージ・オーウェルの「1984」における「ビッグ・ブラザー」のパロディ以外の何物でもない)。それは現代社会の歪みを背後から操っているが、邪悪というよりも「中立的」な存在として描かれている。いったい「リトル・ピープル」とは何者なのだろうか?当然のことながら、現実のカルトや性暴力は、ひとつの原因を悪として抹殺することで解決するような問題ではない。それは「リーダー」を殺害しても「リトル・ピープル」がいなくなるわけではないという物語が示す通りだ。麻原彰晃=松本智津夫が死刑になっても、私たちの社会に巣食っている「オウム的な精神」が消え去ることはない。村上が「リトル・ピープル」という存在を通して描こうとしているのは、「カルト」や「性暴力」の種を今の私たちの社会の成り立ちそのものが内包しているということに他ならない。そういう意味で、「リトル・ピープル」とは「システム」であると言い換えることもできるだろう。外部に屹立する「ビッグ・ブラザー」ではなく、内部で増殖する「リトル・ピープル」たちの群れ。それは、私たちの中にあるもの(集合的無意識というタームを使うこともできるだろう)の現れである。暴力は連鎖し、私たちは死ぬまでそこから抜け出すことはできない。

しかし、村上はニヒリストの立場には立たない。確かに、私たちはもうリトル・ピープルのいない「1984」には戻れない。「リーダー」が死ぬ間際に呟くように、「その世界はもうない」。気がつけば月はふたつ出ていて、私たちは問題だらけの「1Q84」の中で生きていくしかないのだ。しかし村上は、「愛」という希望があれば人間は生きていくことができる、という。

Without your love, it's a honkey-tonk parade.

しかしこの物語が非常に残酷で、非常に感動的であるのは、「愛」は永遠に満たされない希望として描かれているということだ。天吾と青豆は接近するが再会することはなく、天吾は青豆が自分のために死んだことを一生知ることはない。それでも天吾は青豆に再会するという(読み手には絶対叶わないとわかっている)希望を持っているからこそ、「1Q84」の世界で生きていくことができる。世界の絶望的な混沌を前にして現代人はどのように生きていくことができるのか、ここに村上のメッセージがある。

第三の物語 - 「空気さなぎ」、あるいは書き換えられた世界

もうひとつ、この小説において重要な役割を果たしているのが「空気さなぎ」という架空の小説中小説と、その作者である「ふかえり」(深田絵里子)である。天吾は「空気さなぎ」を書き直し、ふかえりと交流することで青豆につながっていく。いわばこれらは青豆の物語と天吾の物語を象徴的なレヴェルで媒介するチャンネルであり、「空気さなぎ」とは「もうひとつの物語」であるといえるだろう。ふかえりからは意図的に人間的な性格づけが排除されているが、それは彼女が現実世界と象徴的世界の媒介者、いわば巫女のような存在であることを意味している。天吾とふかえりの間の(象徴的な)セックス描写もまた、神と媒介する巫女の存在をイメージさせる。しかし、天吾が見た「空気さなぎ」の中の10歳の青豆の姿はいったい何を意味しているのだろうか。「2001年宇宙の旅」のラスト・シーンをも連想させるこの描写は非常に謎めいていて、リトル・ピープルの両義性を強く示唆するものだ。

この小説の中には、他にも複雑な意味の結びつきをもたらす細部やエピソードが詰め込まれている。たとえば青豆が睾丸を蹴るという描写は、天吾がガールフレンドの人妻に睾丸を愛撫される描写と対になっている。チェーホフの「サハリン島」の引用は、タマルの出自としてのサハリン島のエピソードに接続している。また天吾の父親がNHKの集金人だったという重要な設定は、さりげなく挿入された架空の新聞記事の内容とともに、NHKのETV問題 ‐ 戦時性暴力をテーマとした番組に一部の政治家が圧力を加えて番組が改変されたこと ‐ を連想させる。この小説の中ではNHKという記号は「私たちを現実世界と強固に結びつけるもの」という意味合いで用いられているように思う。このように物語の中に複雑に組み込まれた意味の乱反射を仔細に分析することはここではとてもできないが、これらの細部が物語に非常に豊かなニュアンスを与えている。そして、歴史認識をめぐる議論がこれに絡んでくる。

歴史とは集合的記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる。

あるいは「1Q84」とは、「歴史を書き換えられた世界」のことなのかもしれない。これもまた、ジョージ・オーウェルへのオマージュとして。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »