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「1Q84」を読む

1Q84 BOOK 1 1Q84 BOOK 2
村上春樹「1Q84」(BOOK 1 & BOOK 2)新潮社

「アフターダーク」以来およそ5年ぶりとなる、村上春樹の長編新作(書き下ろし)。

物語構造 ‐ 「海辺のカフカ」との類似

一読して感じたのは、この物語が村上の近作長編「海辺のカフカ」「アフターダーク」といった村上の長編近作と類似した構造を持っているということだ。とくに「海辺のカフカ」とは次のような大きな共通点がある。

1)ふたつの物語が交互に進行する。最初はお互いに無関係のように物語は進行するが、やがて両者は接近していき、最後にはひとつの物語になる。これは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」以来、村上がしばしば用いる手法である。
2)それぞれの物語の主人公は、象徴的なレヴェルにおける「敵」と戦い、勝利を収める。しかしその代償として、ひとりの主人公は現実の世界で死を迎える。

主題として暴力を扱っていることも含め、「1Q84」は「海辺のカフカ」と非常によく似ている。おそらく村上はふたつの小説で同じようなことを言おうとしているのだ。しかし、ひとつだけ大きな違いがある。「海辺のカフカ」では、現実の世界の秩序が回復されることによって物語は収束していくのだが、「1Q84」では世界は変質した「新しい世界」のままで終わるのだ。物語の中で語られたいくつかの謎が未解決であることもあわせて、読み手は何とも言えない不安定な気持ちのままで放り出される。音楽でいえば、トニックがもたらされない感覚といえるだろうか。ここから、「この物語には続編があるのではないか(BOOK 3?)」という感想を抱く人が多いようだ。実際どうなのかは作者しか知り得ないことだが、私としてはこの小説はここで一応終わっていると考える。それはなぜか。この不安定なエンディングの感覚が、前作「アフターダーク」とよく似ているからだ。

「アフターダーク」は非常に実験的な小説である。映画のカメラのような視点の取り方もさることながら、物語の中で出て来た謎が何一つ解決されることなく、さらに何かが新しく始まろうとしているときに唐突に小説は終わってしまう。この「物語が終わらないうちに小説が終わる」というエンディングのかたちが、「1Q84」でも採用されていると私は考える。このエンディングが示していることは何だろうか。「物語が終止せず続いていく感覚」、それは、「ここから先の物語は、読み手が現実の世界で作り上げていってほしい」ということだと私は考える。私たちが生きる現実の世界も、常に新しく作られていく物語である。主人公がこの先に生きていく「新しい世界」は、小説を読み終わった後の読み手が生きる世界でもある。小説を読むことが現実からの逃避ではなく、現実に何らかをフィードバックする行為であってほしいという村上の思いが、この不安定なエンディングには込められているのではないだろうか。実はそのような思いは「海辺のカフカ」にも込められている。「海辺のカフカ」の最後の1行は、

そして君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている。

と書かれている。そして「1Q84」の最終章には、

これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は思った。(・・・)たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。

という言葉がある。ふたつの作品が到達する地点は極めて近い。ただ、「海辺のカフカ」は比較的伝統的な物語の力学に従って書かれているのに対して、「1Q84」はより現実の世界へのリファレンスが強いと言えるだろう。

主題 ‐ 現代社会における「信仰」と「セックス」

村上春樹の作風は「ねじまき鳥クロニクル」以降、大きく変化した。翻訳調の文体でシュールな物語が展開する初期の「ムラカミ・ワールド」から、より簡素な文体で日本社会の現実を描き出す近年の作風へ。それはしばしば「デタッチメント」から「コミットメント」への変化として語られ、そのきっかけとして地下鉄サリン事件を題材としたルポルタージュ「アンダーグラウンド」の執筆があったことはよく知られている。「1Q84」の主題は「カルト」と「性暴力」であり、「アンダーグラウンド」以来の「なぜ私たちの社会はオウムを生み出してしまったのか?」という問題意識が村上の中で発展的に継続して生まれたものといえるだろう。

「カルト」と「性暴力」という現象は、人間存在に深く関わっている「信仰」と「」セックス」という行為が、現代社会の中でねじれてしまったものだと考えることができる。現代においてはもはや「信仰」は青豆の意味を失ったお祈りぐらいの意味しかもたないし、「セックス」は愛を伴わないストレス解消の行為でしかない(天吾の年上の既婚者との不倫や、青豆の中年男ハンティングのように)。この倒錯した現代社会において、私たちはどのようにすれば「より良く」生きていくことができるのだろうか?それがこの小説で村上が描いていることだ。

この問題を小説として語る上で村上が重要な役割を与えているのが、「リトル・ピープル」という象徴的レヴェルの存在である(もちろんこれは、ジョージ・オーウェルの「1984」における「ビッグ・ブラザー」のパロディ以外の何物でもない)。それは現代社会の歪みを背後から操っているが、邪悪というよりも「中立的」な存在として描かれている。いったい「リトル・ピープル」とは何者なのだろうか?当然のことながら、現実のカルトや性暴力は、ひとつの原因を悪として抹殺することで解決するような問題ではない。それは「リーダー」を殺害しても「リトル・ピープル」がいなくなるわけではないという物語が示す通りだ。麻原彰晃=松本智津夫が死刑になっても、私たちの社会に巣食っている「オウム的な精神」が消え去ることはない。村上が「リトル・ピープル」という存在を通して描こうとしているのは、「カルト」や「性暴力」の種を今の私たちの社会の成り立ちそのものが内包しているということに他ならない。そういう意味で、「リトル・ピープル」とは「システム」であると言い換えることもできるだろう。外部に屹立する「ビッグ・ブラザー」ではなく、内部で増殖する「リトル・ピープル」たちの群れ。それは、私たちの中にあるもの(集合的無意識というタームを使うこともできるだろう)の現れである。暴力は連鎖し、私たちは死ぬまでそこから抜け出すことはできない。

しかし、村上はニヒリストの立場には立たない。確かに、私たちはもうリトル・ピープルのいない「1984」には戻れない。「リーダー」が死ぬ間際に呟くように、「その世界はもうない」。気がつけば月はふたつ出ていて、私たちは問題だらけの「1Q84」の中で生きていくしかないのだ。しかし村上は、「愛」という希望があれば人間は生きていくことができる、という。

Without your love, it's a honkey-tonk parade.

しかしこの物語が非常に残酷で、非常に感動的であるのは、「愛」は永遠に満たされない希望として描かれているということだ。天吾と青豆は接近するが再会することはなく、天吾は青豆が自分のために死んだことを一生知ることはない。それでも天吾は青豆に再会するという(読み手には絶対叶わないとわかっている)希望を持っているからこそ、「1Q84」の世界で生きていくことができる。世界の絶望的な混沌を前にして現代人はどのように生きていくことができるのか、ここに村上のメッセージがある。

第三の物語 - 「空気さなぎ」、あるいは書き換えられた世界

もうひとつ、この小説において重要な役割を果たしているのが「空気さなぎ」という架空の小説中小説と、その作者である「ふかえり」(深田絵里子)である。天吾は「空気さなぎ」を書き直し、ふかえりと交流することで青豆につながっていく。いわばこれらは青豆の物語と天吾の物語を象徴的なレヴェルで媒介するチャンネルであり、「空気さなぎ」とは「もうひとつの物語」であるといえるだろう。ふかえりからは意図的に人間的な性格づけが排除されているが、それは彼女が現実世界と象徴的世界の媒介者、いわば巫女のような存在であることを意味している。天吾とふかえりの間の(象徴的な)セックス描写もまた、神と媒介する巫女の存在をイメージさせる。しかし、天吾が見た「空気さなぎ」の中の10歳の青豆の姿はいったい何を意味しているのだろうか。「2001年宇宙の旅」のラスト・シーンをも連想させるこの描写は非常に謎めいていて、リトル・ピープルの両義性を強く示唆するものだ。

この小説の中には、他にも複雑な意味の結びつきをもたらす細部やエピソードが詰め込まれている。たとえば青豆が睾丸を蹴るという描写は、天吾がガールフレンドの人妻に睾丸を愛撫される描写と対になっている。チェーホフの「サハリン島」の引用は、タマルの出自としてのサハリン島のエピソードに接続している。また天吾の父親がNHKの集金人だったという重要な設定は、さりげなく挿入された架空の新聞記事の内容とともに、NHKのETV問題 ‐ 戦時性暴力をテーマとした番組に一部の政治家が圧力を加えて番組が改変されたこと ‐ を連想させる。この小説の中ではNHKという記号は「私たちを現実世界と強固に結びつけるもの」という意味合いで用いられているように思う。このように物語の中に複雑に組み込まれた意味の乱反射を仔細に分析することはここではとてもできないが、これらの細部が物語に非常に豊かなニュアンスを与えている。そして、歴史認識をめぐる議論がこれに絡んでくる。

歴史とは集合的記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる。

あるいは「1Q84」とは、「歴史を書き換えられた世界」のことなのかもしれない。これもまた、ジョージ・オーウェルへのオマージュとして。

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