« 2008年10月 | トップページ | 2009年3月 »

まるで印象派のようなアイヴズ

Img002_2ヒラリー・ハーンのリサイタルを西宮で聴いた(1月12日、兵庫県立芸術文化センター大ホール) 。実はハーンの実演を聴くのはこれが初めて。チケットをとったのに仕事で行けなくなってしまったり、仕事が忙しい時期の来日だったりして、これまでの来日公演をすべて見逃してしまっていた。それだけに、今回は無事に行くことができて嬉しい。何といっても現在人気・実力ともに最高のヴァイオリニストのひとりである。会場は満席。他のヴァイオリニストのリサイタルに比べて、ヴァイオリンのおけいこをしていると思しき親子連れの姿が多いように思う。やっぱりハーンがスズキ・メソッド出身だからだろうか。

イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 Op.27-4
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番「キャンプの集いの子供の日」
ブラームス(ヨアヒム編):ハンガリー舞曲集より(第10番ホ長調/第11番イ短調/第12番ニ単調/第19番ロ短調/第5番嬰ヘ短調/第20番ホ短調/第21番ホ短調)
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第2番

イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番 ホ短調 Op.27-6
イザイ:子供の夢 Op.14
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第1番
バルトーク(セーケイ編):ルーマニア民族舞曲

ピアノ:ヴァレンティーナ・リシッツァ

まず冒頭のイザイからその輝かしい音色に惹きつけられる。ブリリアントであるだけでなく、ビロードのように繊細で豊かな響き。運弓に全く無駄がないのも驚いた。弓への力のかけ方にバランスがとれているため、弓が弦にぴったりと貼りついている感じで、発音が安定している。そして右手の正確なこと。どんなに早いパッセージでも乱れることがない。重音も完璧でクリアー。素晴らしい。

今回のプログラムの中心はやはりアイヴズだろう。一般聴衆にあまり好まれるとも思えないアイヴズのソナタを、ひとつのプログラムの中で3曲も演奏するのは、よほどの思い入れがあると考えられる。その演奏の印象を一言で言うならば、「とにかく美しい」ということになるだろうか。これは彼女の最新録音であるシェーンベルクの協奏曲を聴いたときにも感じたことだ。その音色の輝かしさと端正な造形によって、まったく耳障りなところのない、耽美的ともいえるシェーンベルクになっていた。これは、ハーンがシェーンベルクを後期ロマン派の延長線上にとらえた、というのとはちょっと違うように思う。むしろハーンが独自に音楽的に理解し、噛み砕いた世界という感覚だ。今回のアイヴズもまったく同じで、しばしば印象派(ドビュッシー、あるいはより近いのはシマノフスキ)のソナタを聴いているような思いにとらわれた。これだけリッチな響きで演奏されるアイヴズを聴いたことがない。そして、ひとつひとつのフレーズにちゃんと意味をもたせてくれるので本当に聴きやすい。アイヴズの作品の中に出てくる数多くの断片的な引用を、実にわかりやすく響かせてくれる。そして最もシリアスな(それゆえに最も演奏されることの少ない)1番のソナタでは、深い祈りの感情を込めた部分が深く心に刻まれた。逆に、アイヴズの魅力の一つである「苦味」の印象は後退したところもあるが、これはハーンの選択の結果なのだろう。

ハンガリー舞曲集、イザイのソナタ6番(ハバネラのリズムが出てくるところの色彩感が素晴らしかった)も充実した演奏。ルーマニア民族舞曲は、技術的な完璧さという点では以前聴いた庄司紗矢香の方がわずかに勝っているという気がしたが(重音のバランスなど)、もちろん非の打ちどころはない。最初のアンコールはパガニーニのカンタービレ、2回目のアンコールはハンガリー舞曲集の第5番。

全体的に振り返ると、完璧な技術に支えられた実に端正な演奏だと思う。音色の豊かさがその魅力を倍増している。ステージならではの表現の勢いや、そこから生まれる危うさの面白さというのはほとんど感じられないが、これだけの音楽を聴くとそれを短所と感じることもない。やはり現在最高のヴァイオリニストのひとりであり、同時代にこの演奏家を聴くことができて本当に幸せだ。終演後、列をなした何百人ものファンへのサイン会が開催。それを笑顔できっちりとこなすところにもプロフェッショナルを感じる。天才少女と呼ばれたハーンも今年で30歳。やっと聴けた・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

さて、大山崎山荘。

Img001_3山口晃展「さて、大山崎」@アサヒビール大山崎山荘美術館に行った。大山崎山荘は東京にいたころから一度は訪れたいと思っていた場所だけに、ちょうどいい機会だった。去年の前半から、山口さんが大山崎での個展のために現地で取材しているという話はきいていたので、「さて」、どんな個展になったのかしらんと興味津々で出かけた。

大阪と京都の境目、天王山の南麓に位置する大山崎山荘は、大正~昭和初期に関西有数の実業家が建てた、イギリスのチューダー様式をもとにした洋館。平成に入ってからは人も住むことなく非常に荒廃していたそうだが、アサヒビールが改修を手掛け、安藤忠雄設計の新館(半地下の建築)を併設して大山崎山荘美術館として1996年に開館した。急坂を上り、トンネルや門をくぐっていくアプローチも楽しいし、さらさらと水が流れる広い庭園も素敵。しかし何よりも戦前の豊かな富と文化の蓄積を感じさせる重厚な洋館の佇まいが素晴らしく、建築あるいは空間として非常に魅力的だ。いかにも安藤忠雄風なコンクリート打ちっ放しの新館は、シンプルで幾何学的な外観と半地下の構造によって、景観を邪魔することなく庭園の中に溶け込んでいるように思う。この新館に展示されているモネの睡蓮が有名なのだが、今回はこれがメインではない。

さてさて、「さて、大山崎」。実は、出展数は少ない。リストを見ると35点となっているけれど、後述する「壁面見立て」という荒業が10点あまり含まれているから、旧作も除けば実際に制作したのは大小とりまぜ20点ぐらいか。もうちょっと見たかったというのが正直なところだが、出展作品のクオリティは高い。いつもながらの時空を超越した「細画」は「大山崎交通乃圖」で堪能できるが、これは実に見応えがある。またフライヤーにもなっている「野点馬圖」や、ブリューゲルみたいに小さい人が出てくる「最後の晩餐」もいい。さらに東京国立博物館の「対決」展の仕事でも感じたことなのだが、武将や僧侶といった人物の描写に最近は応挙風の写生の味が出てきていて、それは今回は「羽柴筑前」や「千宗易」といった人物画で感じた。他のブログで評判が高い「チェンバロを弾く高山右近」は面白いしアイディアは買うけれど、作品としてはどうかな?むしろ地味だけれど「川圖」と「雲圖」の桃山絵画っぽい描写になんだか惹かれてしまっていつまでも見ていた。

ところで、大山崎に何度も来て取材していた割には、歴史がらみの題材はあるけれど土地の風物に取材した作品はあまりないな・・・と思っていたら、今回の「すゞしろ日記」で本人にはたいして現地取材する気はなかったことが判明。いかにも山口さんらしくて可笑しい。

新館の方の展示はコンセプチュアル・パロディの嵐。本来ここは、安藤忠雄らしいコンクリート打ちっ放しの薄暗い空間に、数点のモネ作品が展示してあるという空間。山口さんはそのコンクリートの壁の何箇所かに照明を当てて長方形を浮かび上がらせ、そこの壁面の状態をむりやり絵に見立てるという「壁面見立て」というコンセプチュアル風荒業を展開。曰く、「父子」。曰く、「香呂峰」。曰く、「葦原」・・・。山口晃×安藤忠雄の世紀のコラボレーションとも言えるし、「見立て」という文人趣味を現代アートに蘇らせた問題作とも言えるし、単に何も作らずにズルして作品点数を増やしているだけのような気もするし、とにかく馬鹿馬鹿しい。そして展示スペースには「自由研究(柱華道)」というきわめてまっとうに笑える作品もあり。さらにここにある「邸内見立 洛中洛外圖」はNHKのハイビジョン特集「狩野永徳」のために2007年に制作したもので、新作ではないが、この作品については個人的な思い出もあって私は大好き。展覧会では初公開らしい。どうぞお楽しみあれ。

山口さんの作品だけを見ていると、点数は少ないけれどクオリティは高いし、個展としての構成上のバランスはとれているように感じる。でも、見終わると何だか物足りない感じがしてしまうのはどうしてだろう?よくよく考えて、この会場のせいだと気づいた。大山崎山荘という昭和初期の建築空間そのものが、展示されている山口作品を食ってしまうぐらい濃厚な味を出しているのだ。別に山口さんが悪いわけではないのだが、今回はなんだか建築に負けてしまっているような気がする。でも、訪れる人にとってはそれも含めて味わうことができるのだから、これはかえってお得なのかもしれない。

3月8日まで。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

桐野版「古事記」だが…

女神記 (新・世界の神話)
桐野夏生「女神記」角川書店

「世界32カ国共同プロジェクト」である「世界の神話」というシリーズの1冊として書き下ろされた桐野夏生の新作。このプロジェクトで出版された他の作品を読んでいないのだが、世界各地の神話を題材にして各国の作家に新作を依頼するというものらしい。桐野の場合は、「古事記」などに記された日本神話が題材となっている。

さて、本作でもここ何作かの桐野作品と同様、沖縄(あるいは「南の島」)が物語の舞台となっている。そしてこの作品の大きなテーマは、イザナキとイザナミの神話を女の視点から語り直すというところにある。この作品の概念的な枠組みは、ヤマトではなく「辺境の島」から、男性ではなく「女性」から、つまりいずれも「外部」の視点から日本神話を批評的に再解釈しようということだと言えるだろう。この概念枠組み自体は、言うまでもなく非常にありふれていて、新味のあるものではない。しかし、それはあまり重要なことではないだろう。物語の論理的な構造を超えてしまう「語り」の力こそが、文学の最大の魅力なのだから。

だが、この作品に関しての私の判断はちょっと辛い。南の島の描写は魅力的だが、カミクゥやナミマ、マヒトといった登場人物がそれほど絡み合うわけではないため、これまでの桐野作品のようなリアリティあふれる人間描写が少なく、物語としてかなり食い足りなさが残るのだ。物語の中心にいるのは黄泉国に住むイザナミという神だが、この神様を人間的に捉えてその「心情」に迫るには、あまりにも時空設定にリアリティがなさすぎる(神様だから仕方ないけれど)。結果的に、身動きのとれない不自由な場所で一生懸命桐野ワールドを現出させようとしているような難しさを感じてしまう。編集者の狙いとしては、「女性の情念を描く作家だから、桐野夏生にイザナミをぶつけよう」ということなのかもしれないが、もしそうだとしたらそのコンセプト自体が少し間違っているように感じる。桐野夏生は具体的な描写の積み重ねでリアリティあふれる人物を構築していく作家であり、内面的な心理描写を得意とするタイプではない。主人公の独白ですら、言葉の裏にある正反対の真意を描写によって浮かび上がらせるようなところがある。こういう人にイザナミという神話の登場人物を描かせるのはちょっと酷ではないだろうか。

この不自由さに縛られてか、物語が帰着する「男と女の理解不可能性」にも説得力が欠けている。いま、神話を題材に男女の関係性を語る必要性もしくはアクチュアリティがどこにあるのか、私にはよくわからない(まあ、隠蔽された原=日本神話に内在する母性への回帰を唱えるというようなとんでもない結末にならなかっただけ良いけれど)。桐野夏生にはもっと徹底して語りの面白さを追求してもらいたいし、その中で人間性についての残酷なまでのリアリティを描き出してこそ、文学としての価値があるといえるだろう。この作品を読んで日本神話をあらためて読みたくなる、というプロジェクトとしての効果は否定しないが、桐野作品として見た場合のクオリティは必ずしも高くないと感じる。このプロジェクトは受けなくてもよかったのではないか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2009年3月 »