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アウトローのバラッド

Jessejamesブラッド・ピット主演・プロデュースの「ジェシー・ジェイムズの暗殺」。ハリウッド大作に出演して稼ぎまくる一方、たとえ興行成績は見込めなくても気に入った作品には積極的に投資するのが最近のブラピの傾向なのだろうか。南北戦争後、西部開拓時代末期に活躍したアウトローの晩年の物語。地味な映画ではある。ハリウッドお得意のスペクタクルや派手なアクションもない。しかし、これは悪くない映画だ。個人的にアーリー・アメリカンの歴史や民俗伝承に関心が深いということはもちろんある。しかし、そのような個人的興味を差し引いてもよくできていると思う。

当時の西部に生きる人々が直面しているのは、果てしなく広がる大地だ。人間は広大な自然の一部に必死にしがみき、何とか生きているに過ぎない。夜になれば闇が世界を覆い尽くし、小さなランプのあかりは厳しい自然に立ち向かう人間の最後のよりどころのように見える。この美しく残酷な大自然、そして光と闇のコントラストを描き出す映像が素晴らしい。白眉のカットは、やはり向かってくる機関車の前に立ちはだかるシルエットだと思うが、人妻が情事のために吹き消すランプや、満点の星空の下での乗馬なども印象的だ。深い山中にある凍った湖でのシーンも実に美しい。全体的に青みがかったトーンが、この土地の冷たさと、荒々しくささくれだった人々の感情を表現している。

西部の自然が人間に対してあまりに暴力的であるのとおそらく同じ意味において、ここでは人と人との関係も暴力が剥き出しになっている。列車強盗で血だるまにされる車掌、裏切りを疑われて夜道で突然胸を撃ち抜かれる男、地面に押さえつけられて死ぬほど顔を殴られる子供。暴力は強い痛みを伴い、どこまでもドライだ。そして人々にとって死は決して遠いものではない。撃ち殺された者を人々は悼むが、さきほどまで話をしていた人物が突然殺されたという事実そのものにはさほど驚かない。西部という土地の暴力性が最も端的に表れていたのは、射殺された者を裸のまま雪原に葬るシーンであったかもしれない。すでに変色し始めている死体の上に乱雑に雪をかけて埋葬の代わりとし、祈りの言葉が口早に唱えられる。この暴力に満ち溢れた土地が、またきわめて信心深い宗教的な土地でもあったことを思わせる。

映画の本筋は心理ドラマだ。アウトローとして知られたジェシー・ジェイムズが殺人と逃亡生活の中でいかに仲間に対して猜疑心を募らせていったのか。そのジェシーに子供の頃から憧れていた青年の熱狂的な崇拝がどのようにして裏切りに転じるのか。その裏切りの疑いをジェシーはどのように感じ取るのか・・・。このあたりのブラピとケイシー・アフレックの演技はなかなかのものだ。その関係にどこかホモセクシャル的な暗示があるのも面白い。「暗殺」は多くの謎に満ちているものの、やはり自らの最後を悟った(あるいは自らの人生を呪い続けていた)ジェシー自身による「仕掛け」だったと見るのがまっとうだろう。撃ったのは誰なのか、にも実は謎が残っているが。

もちろんいろいろな欠点もある。前半で錯綜する親戚関係は初見ではほとんど把握不可能だ。アメリカ人には馴染みの深いストーリーも日本ではわかりにくい。それと、エピローグがちょっと長すぎる。ロバート・フォードという人物への監督の興味がそうさせるのだろうが、ドラマトゥルギーとしてはあきらかに冗長だ。エピソードとしては面白いのだけれども、語れば語るほど物語のテンションを落としていくと感じた。なお、暗殺されることが最初からわかっているのはストーリーとして面白くない・・・というような意見は全くの論外。これはこのストーリーが説話的な「バラッド」として語られていることを示しているのだ。この語りの手法が映画全体のトーンに及ぼしている影響を見逃すことはできない。また、最初はなんだかよくわからなかった周囲のボケた映像効果の意味が最後の方でわかる、というのも良かった。なるほど考えたな、という感じではあるけれども。

音楽はニック・ケイヴとウォーレン・エリス。ニック・ケイヴは映画の中でも酒場の流しとして登場していた(「ジェシー・ジェイムズの暗殺」とでも言えるようなバラッドを歌っていた。サントラに未収録なのが惜しい)。渋くて派手さはないが、いい音楽だと思う。それは映画全体の印象と重なっているのだ。

アンドリュー・ドミニク監督、2007年、アメリカ。

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ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム

Hokuto001_2仕事が忙しくなると、どうしてもレヴューは滞りがちだ。いたしかたないが、今年はもう少し書くように努力してみよう。短くても、印象が新鮮なうちに書き留めたものの方が、あとから参照したときに役に立つ。

京都国立近代美術館で開催中の玉村方久斗展。あまり知られてはいない日本画家だ。京都画壇から出発しながら、若いうちに東京に移り住み、独特な画風の作品を発表するうちに前衛にはまって一時期はダダ・未来派的な活動を展開する。しかし再び日本画のフィールドに復帰して、正統的ではないスタイルの日本画を描き続けた人。次々といろんな団体を立ち上げたり雑誌を作ったりするところに、この人の性格が伺える。

ベースにあるのは文人画的なスタイルであるように思うが、ヴィヴィッドな色彩と、どこかふわふわと漂うような柔らかい線が印象的だ。古典文学の表現に強いこだわりがあるらしく、「雨月物語」「道成寺縁起絵巻」「保元物語」のほか、古典文学に題材をとった作品が多いが、それ自体が何を意味するのかにわかにはつかみにくい。しかしそれらの作品に顕著な残虐趣味への傾倒-飛び散る血、あたり一面の血の海、腐乱する死体、晒し首など-からは、この人の表現しようとしているものについての大きなヒントがあるように思う。とくに大作「雨月物語」は代表作とされるだけあって圧巻だ。「浅茅が宿」の勝四郎と妻が抱き合っている画面の背景に塗られた、血のような夕闇の色が深く心に残った。

1930年代に描かれたグロッスのような作品や、戦時中のほとんどマティスのような作品は日本画と洋画の狭間を行こうとする意欲的な作品群としては面白い。それより前の前衛時代の作品はほとんど残っていないので、写真や発行していた雑誌で雰囲気を感じ取るのみだが、それらが彼のその後の活動にどのような影響を与えているのかはこの展示ではわかりにくい(おそらくまだ十分に研究も尽くされていないのだろう)。興味深いだけに、その意義が宙に浮いてしまった構成になっているのはちょっともったいない。

全体的に、なんだか不思議な世界を見てしまった気分。世の中を斜から見ているような、ちょっとひねくれた眼差し。不思議でグロテスクなな幻視の才能。日本画という制度を信じない制作態度。通り一遍の日本美術史ではあまり触れられることのない、こういう画家の世界を知っておくことは、意外と大事だと思う。

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