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深化するゲルギエフ

  • Gergievワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団の大阪公演を観た(11月16日、フェスティバルホール)。このコンビの実演はもう何度も体験しているが、来日するたびに行きたくなってしまう。ゲルギエフのライヴは本当に面白いからだ。今回の弦の構成は16-12-10-10-7。オケは通常配置だが、コントラバスがステージ下手(しもて)、チェレスタは下手方向だがほとんどステージ中央、ハープは上手(かみて)という位置関係。前回の来日時に書いたメモを確認すると、チェレスタは上手だったらしいが、基本的には同じ配置だった。ゲルギエフ氏は今回は指揮棒あり。

    チャイコフスキー: 交響曲第2番 ハ短調 作品17 「小ロシア」
    プロコフィエフ: ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品26(ピアノ独奏:イェフィム・ブロンフマン)
    ショスタコーヴィチ: 交響曲第15番 イ長調 作品141

    重量級のプログラムと言っていいだろう。チャイコフスキーの2番は珍しいプロだと思うが、冒頭のホルンから「ロシアの音」で聴き手をぐっとひきつける。管も弦もどこかほの暗く、翳を帯びた音色だ。こういうオケで聴くチャイコフスキーは本当に美しい。前回聴いたときはホールのせいもあって(渋谷のオーチャードホール)弦の響きにあまり魅力を感じられなかったのだが、今回はさすがフェスティバルホール。ダークで艶やかな弦セクションの響きにうっとりさせられることが多かった。硬い音でガンガン叩きまくるティンパニもかっこいい。この曲の解説では民謡旋律の引用ということが書かれていることが多いが、躍動感に溢れるゲルギエフの演奏で聴いていると、民謡旋律だけではなく民族舞踊的なダンスのリズムも活かされていることがよくわかる。第4楽章の第2主題を奏でるヴァイオリン・セクションの美しいこと!そしてコーダの急激なアッチェレランドには興奮させられる。前プロだというのに、メインでも通用するようなへヴィーな演奏がいきなり展開された。

    オケが十分すぎるほど温まったところにブロンフマン登場。うわ、こんな巨漢だったっけ?と思うほどの巨大な体躯である。第1主題は意外と落ち着いたテンポで出てきたが、ここはいきなりトップギアで疾走したほうが良かったのでは。最初は細かいタッチもあまりよく聴こえない。しかし主題を繰り返すたびにテンポは速くなり、オケとのバランスも回復していった。ブロンフマンはその体格を見れば誰もが予想するように、ピアノを過酷な拷問にかけるタイプのピアニストだ。常に指先に全体重をしっかりと乗せて鍵盤をぶったたくので、非常に重量感のあるマッシヴな響きとなる。鋼鉄のピアニズム、野蛮なモダニストとしてのプロコフィエフ。しかしその分、この曲に込められた「軽み」や「皮肉」といったスマートな要素、あるいはセクシーな媚態といったものはあまり感じられない。もちろん繊細さがないわけではないのだが、爆走する重戦車のような演奏の中では、しなやかな表現は感じ取りにくいのだ。オケの色彩感溢れる響きがその物足りなさを幾分補っていた。闇の中で繰り広げられる悪魔の饗宴、粉々に砕け散ったガラスの破片が奈落の底にスローモーションで飛び散っていくような感覚。やはり美しい弦セクションが、プロコフィエフ独特の瑞々しい叙情を十分に表出する。ソロは重すぎる感じはするものの、そのヴィルティオジティには脱帽せざるを得ない。アンコールはショパンの12の練習曲から「革命」。やっぱりこういう曲がお好みらしい。

    そしてショスタコーヴィチ。今回はスコアをかなり読み込んでいったので、これまでよりはるかにこの曲をよく理解することができた。それにしても不思議な曲だ。第1楽章はおもちゃの兵隊で戦争ごっこをして遊んでいるうちに、夢と現実が交錯して赤軍の戦闘に巻き込まれているような音楽。「ウィリアム・テル」が鳴り響く中、気が付いたら大人になっていて、もう子供時代には戻れないのだ。この楽章は速いテンポでせかせかと神経症的に演奏されることが多いのだが、ゲルギエフはやや落ち着いたテンポを選んで手綱を引き締める。そのことによって暗い時代の影を強調するのだ。第2楽章は明らかに、理不尽な暴力のうちに命を落とした、無数の死者たちに捧げる音楽。金管のコラールと、古のロシア聖歌のような、あるいは息子を奪われた農婦の哭き歌のようなチェロのモノローグが入れ替わる。ゲルギエフはここでもひとつひとつの音色を大事にして、じっくりと腰を落ち着けて音楽を進めていく。チェロが物凄く巧い。そして突然やってくる空虚な「死」の響き(練習番号61)。トロンボーンによる葬送行進曲(ツヴェターエヴァの自殺を扱った自作歌曲からの引用)、悲劇的な感情の爆発を経て、最後に布で覆われたティンパニが奏される(布で覆った打楽器は「死」を意味している)。あまりにゆっくりとしたテンポをとるので、ほとんどソロとソロをつないでいくような音楽になる。そしてその合間には無音の虚無が牙を剥く。アタッカで続く第3楽章のスケルツォは、体制に迎合する者たちの辛辣な描写なのか、それとも自らをもそのひとりとして自嘲する音楽なのか?またまたゲルギエフは慌てることなく手綱を引き締める。そして第4楽章。冒頭のワーグナーの引用からもわかるように、テーマは「運命」だ。グリンカの歌曲「誘うな、必要もなく」の甘いメロディーが、宙ぶらりんになったような不思議な空間を作り出す。このあたりの弦の歌わせ方も実に美しい。中間部はパッサカリア。執拗に繰り返されるバスが、逃れられない運命を突きつける。多くの身近な人々が飲み込まれていった凶暴な死に、自分もいままさに向き合っているのだという恐怖が、荒れ狂うクライマックスに投影されている。静まって再びグリンカ。途切れ途切れに聴こえるメロディーは、まるで病室のラジオから流れてくる音楽のようだ。死を暗示するゴングが静かに鳴り渡り、チェレスタが上昇していくと、世にも不思議なコーダとなる。徹底して弱音に抑えた弦の透明な響きの上で、無機的に打ち鳴らされる打楽器たち。無情にコチコチと流れていく時間を暗示しているのか、それともポタポタと落ちる点滴のリズムなのか。ゲルギエフは強い緊張感の持続の中で精密な音楽を作り出す。幼年時代の兵隊ごっこに始まった物語の最後のシーンは、点滴からのズームバック。カメラは白い病室のベッドの上に横たわるショスタコーヴィチの全身をとらえ、やがてゆっくりと黒い画面へとフェイド・アウトしていく。音楽が遥か遠くにふっと消え去るような感覚も、実に巧みだった。

    これは抑制の美学だ。ロシア・オケだとどうしてもドカーンという爆発を期待してしまうのだが(もちろんそういうエンターテインメントも場面によっては見せてくれる)、このショスタコーヴィチはもう一段解釈のレベルを上げた仕上がりとなっている。手綱を引き締めて鳴らすことで、この謎めいた作品のメッセージを鋭く読み解こうとしているのだ。ゲルギエフはオケを完全に自分の楽器のように操っており、しかも恐ろしいことにその楽器の精度はどんどん向上している。次回の来日ではいったいどんなことになっているのか?絶対にまた観に行かねばならない。アンコールはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からパ・ドゥ・ドゥ、そしてプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」から行進曲。ブラーヴォ。それにしても空席が目立った。料金設定がやや高すぎるのか、大阪のファン層というのはこのぐらいなのか。ちょっともったいない。

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