« 2007年10月 | トップページ | 2008年1月 »

祝・復活。

ゴーン・フェイデッド
Soft / Gone Faded

やっぱり解散してしまったのだろうか・・・と諦めかけていた頃にようやく届いたソフトの新作。前作発表後にマネージメントとトラブルになり、あのファースト・アルバム「Hot Club And The Smoke Machine」は結局日本でしか発売されなかったのだそうだ。ということで、本作が正式な(ワールド・ワイドにリリースされる)ファースト・アルバムということになるらしい。そのため内容は「Hot Club ~」に収められていた曲の再演(新録)が中心だが、新曲も3曲入っており、これらの曲調も基本的に前作の延長線上にある(要するにマンチェ)。「Hot Club ~」に比べると明らかにヴォーカルを全面に出した聴きやすいアレンジ/ミックスになっており、あのカオティックでアングラ感のあるサウンドに中毒症状を起こしていた(私のような)ファンには、ちょっと物足りなく感じるところもある。しかしそれが逆にメロディーの美しさ、曲としての完成度の高さを明らかにしているのも確か。ともあれ、マンチェ世代にはたまらないこのバンドの復活を喜ぼう。セカンド・アルバム用の曲もほぼ書き終えているというから期待が高まる。私は回顧的だろうか?でもいいバンドだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

深化するゲルギエフ

  • Gergievワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団の大阪公演を観た(11月16日、フェスティバルホール)。このコンビの実演はもう何度も体験しているが、来日するたびに行きたくなってしまう。ゲルギエフのライヴは本当に面白いからだ。今回の弦の構成は16-12-10-10-7。オケは通常配置だが、コントラバスがステージ下手(しもて)、チェレスタは下手方向だがほとんどステージ中央、ハープは上手(かみて)という位置関係。前回の来日時に書いたメモを確認すると、チェレスタは上手だったらしいが、基本的には同じ配置だった。ゲルギエフ氏は今回は指揮棒あり。

    チャイコフスキー: 交響曲第2番 ハ短調 作品17 「小ロシア」
    プロコフィエフ: ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品26(ピアノ独奏:イェフィム・ブロンフマン)
    ショスタコーヴィチ: 交響曲第15番 イ長調 作品141

    重量級のプログラムと言っていいだろう。チャイコフスキーの2番は珍しいプロだと思うが、冒頭のホルンから「ロシアの音」で聴き手をぐっとひきつける。管も弦もどこかほの暗く、翳を帯びた音色だ。こういうオケで聴くチャイコフスキーは本当に美しい。前回聴いたときはホールのせいもあって(渋谷のオーチャードホール)弦の響きにあまり魅力を感じられなかったのだが、今回はさすがフェスティバルホール。ダークで艶やかな弦セクションの響きにうっとりさせられることが多かった。硬い音でガンガン叩きまくるティンパニもかっこいい。この曲の解説では民謡旋律の引用ということが書かれていることが多いが、躍動感に溢れるゲルギエフの演奏で聴いていると、民謡旋律だけではなく民族舞踊的なダンスのリズムも活かされていることがよくわかる。第4楽章の第2主題を奏でるヴァイオリン・セクションの美しいこと!そしてコーダの急激なアッチェレランドには興奮させられる。前プロだというのに、メインでも通用するようなへヴィーな演奏がいきなり展開された。

    オケが十分すぎるほど温まったところにブロンフマン登場。うわ、こんな巨漢だったっけ?と思うほどの巨大な体躯である。第1主題は意外と落ち着いたテンポで出てきたが、ここはいきなりトップギアで疾走したほうが良かったのでは。最初は細かいタッチもあまりよく聴こえない。しかし主題を繰り返すたびにテンポは速くなり、オケとのバランスも回復していった。ブロンフマンはその体格を見れば誰もが予想するように、ピアノを過酷な拷問にかけるタイプのピアニストだ。常に指先に全体重をしっかりと乗せて鍵盤をぶったたくので、非常に重量感のあるマッシヴな響きとなる。鋼鉄のピアニズム、野蛮なモダニストとしてのプロコフィエフ。しかしその分、この曲に込められた「軽み」や「皮肉」といったスマートな要素、あるいはセクシーな媚態といったものはあまり感じられない。もちろん繊細さがないわけではないのだが、爆走する重戦車のような演奏の中では、しなやかな表現は感じ取りにくいのだ。オケの色彩感溢れる響きがその物足りなさを幾分補っていた。闇の中で繰り広げられる悪魔の饗宴、粉々に砕け散ったガラスの破片が奈落の底にスローモーションで飛び散っていくような感覚。やはり美しい弦セクションが、プロコフィエフ独特の瑞々しい叙情を十分に表出する。ソロは重すぎる感じはするものの、そのヴィルティオジティには脱帽せざるを得ない。アンコールはショパンの12の練習曲から「革命」。やっぱりこういう曲がお好みらしい。

    そしてショスタコーヴィチ。今回はスコアをかなり読み込んでいったので、これまでよりはるかにこの曲をよく理解することができた。それにしても不思議な曲だ。第1楽章はおもちゃの兵隊で戦争ごっこをして遊んでいるうちに、夢と現実が交錯して赤軍の戦闘に巻き込まれているような音楽。「ウィリアム・テル」が鳴り響く中、気が付いたら大人になっていて、もう子供時代には戻れないのだ。この楽章は速いテンポでせかせかと神経症的に演奏されることが多いのだが、ゲルギエフはやや落ち着いたテンポを選んで手綱を引き締める。そのことによって暗い時代の影を強調するのだ。第2楽章は明らかに、理不尽な暴力のうちに命を落とした、無数の死者たちに捧げる音楽。金管のコラールと、古のロシア聖歌のような、あるいは息子を奪われた農婦の哭き歌のようなチェロのモノローグが入れ替わる。ゲルギエフはここでもひとつひとつの音色を大事にして、じっくりと腰を落ち着けて音楽を進めていく。チェロが物凄く巧い。そして突然やってくる空虚な「死」の響き(練習番号61)。トロンボーンによる葬送行進曲(ツヴェターエヴァの自殺を扱った自作歌曲からの引用)、悲劇的な感情の爆発を経て、最後に布で覆われたティンパニが奏される(布で覆った打楽器は「死」を意味している)。あまりにゆっくりとしたテンポをとるので、ほとんどソロとソロをつないでいくような音楽になる。そしてその合間には無音の虚無が牙を剥く。アタッカで続く第3楽章のスケルツォは、体制に迎合する者たちの辛辣な描写なのか、それとも自らをもそのひとりとして自嘲する音楽なのか?またまたゲルギエフは慌てることなく手綱を引き締める。そして第4楽章。冒頭のワーグナーの引用からもわかるように、テーマは「運命」だ。グリンカの歌曲「誘うな、必要もなく」の甘いメロディーが、宙ぶらりんになったような不思議な空間を作り出す。このあたりの弦の歌わせ方も実に美しい。中間部はパッサカリア。執拗に繰り返されるバスが、逃れられない運命を突きつける。多くの身近な人々が飲み込まれていった凶暴な死に、自分もいままさに向き合っているのだという恐怖が、荒れ狂うクライマックスに投影されている。静まって再びグリンカ。途切れ途切れに聴こえるメロディーは、まるで病室のラジオから流れてくる音楽のようだ。死を暗示するゴングが静かに鳴り渡り、チェレスタが上昇していくと、世にも不思議なコーダとなる。徹底して弱音に抑えた弦の透明な響きの上で、無機的に打ち鳴らされる打楽器たち。無情にコチコチと流れていく時間を暗示しているのか、それともポタポタと落ちる点滴のリズムなのか。ゲルギエフは強い緊張感の持続の中で精密な音楽を作り出す。幼年時代の兵隊ごっこに始まった物語の最後のシーンは、点滴からのズームバック。カメラは白い病室のベッドの上に横たわるショスタコーヴィチの全身をとらえ、やがてゆっくりと黒い画面へとフェイド・アウトしていく。音楽が遥か遠くにふっと消え去るような感覚も、実に巧みだった。

    これは抑制の美学だ。ロシア・オケだとどうしてもドカーンという爆発を期待してしまうのだが(もちろんそういうエンターテインメントも場面によっては見せてくれる)、このショスタコーヴィチはもう一段解釈のレベルを上げた仕上がりとなっている。手綱を引き締めて鳴らすことで、この謎めいた作品のメッセージを鋭く読み解こうとしているのだ。ゲルギエフはオケを完全に自分の楽器のように操っており、しかも恐ろしいことにその楽器の精度はどんどん向上している。次回の来日ではいったいどんなことになっているのか?絶対にまた観に行かねばならない。アンコールはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からパ・ドゥ・ドゥ、そしてプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」から行進曲。ブラーヴォ。それにしても空席が目立った。料金設定がやや高すぎるのか、大阪のファン層というのはこのぐらいなのか。ちょっともったいない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブラームスはお好き?

Photo大阪センチュリー交響楽団の第126回定期演奏会を聴いた(11月8日、ザ・シンフォニーホール)。指揮は首席指揮者の小泉和裕。1年ほど前に初めてこのオケを聴いたときの驚きは、このブログにも書いた覚えがある。編成が小さい!弦がきれい!管は若干パワー不足を感じるときもあるが、大きく外すことはまずない。何というか、きれいにまとまってアットホームな感じだ。それから1年間、時間の許す限りこのオケの演奏会に足を運んできたが、ますますこのオケの響きが好きになっている。管もずいぶん良くなったと思う。小泉とオケの間にいい形の信頼関係があることが伝わってくるのも心地良い。小泉指揮の演奏会のときは特に安心して音楽に身を委ねることができるのだ。もちろん何もかも完璧というわけではないけれど、いいオケだと思う。実は、練習場が私の自宅からものすごく近いのだ。それも親近感を持つ理由かも。

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲
R.シュトラウス:4つの最後の歌(ソプラノ独奏:中丸三千繪)
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73

注目はやはり「4つの最後の歌」。中丸の声の質は柔らかくて良いのだが、最初は声がうまく通らないような印象を受けた。歌がオケの響きの中に埋もれがちで、子音は全く聞こえず、ヴィブラートのかかった長い音符だけが聴こえてくる。惜しいな・・・と思っていたら、第2曲「9月」の終盤、小泉がオケの音量とテンポを「ぐっ」と落とす甘美な部分があり、そこから急激に良くなっていった。現在のホールの状態でのオケと歌の響きのバランスをしっかりと捕まえた感じ。特に終曲の「夕映えの中で」の美しさは絶品だった。最後のフレーズ「ist dies etwa der Tod?」の精妙な美しさ・・・。小泉が弱音で展開する繊細な流れに、しばしば木管がピシッと合わないところがあったのが残念だが、総じて素晴らしい演奏だったと思う。コンマスの川崎も、ちょっとヒヤリとする箇所はあったものの、実に美しいソロの音色を聴かせてくれた。

そしてブラームスの2番。この曲を聴いて嫌な気分になる人など、世の中にほとんどいないのではないだろうか?私は聴くたびにペルチャッハ(ブラームスがこの曲を作曲した土地)とはどんなに美しい土地なのだろうかと考える。小泉はセンチュリーの美しい弦を朗々と響かせると同時に、第1楽章の第2主題のチェロなどしっかりとマルカートを強調して聴かせる。う~ん、いいなあ。そして第4楽章のエンディング。コーダに入るとハラハラするほどのアッチェレランドをかけてスリリングに突進していき、金管も輝かしく鳴らし切って大団円を迎える。これは熱演だ。小さくまとまっていて雄大なスケールには欠けているかもしれないけれど、素晴らしいブラームスだった。

小泉/センチュリーのブラームスはやはりとても良いと思う。来年はついに1番。期待が膨らむ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

君は永徳を見たか?

Photo_2京都国立博物館で開催中の狩野永徳展を観た。とは言っても、私はほとんど関係者のようなものである。仕事がらみ。ちょうど1年前に担当学芸員の山本英男さんにこの企画展の内容を伺い、それから折に触れては進捗状況をたずね、重要な出展作品を各地にたずねて自分の目で確認する、というようなことをしてきた。しかし訳あって夏前にその仕事から外れてしまったので、最終的にどんな展覧会になるだろうか、ということはずっと気になっていた。会期半ばの平日に行ってみたら噂通り、入場60分待ちの長蛇の列。それでも日によっては90分待ちだったり、土日は120分待ちだったりするらしい(!)。おそらく会期後半はさらに殺人的に混みあってくるだろう。しかしどうしてもこれから行きたい、という人のためにアドバイス。金・土・日は開館時間を延長して午後8時までやっているので、夕方ぐらいに行くのが狙い目。それでも混んでいるとは思うけど、一番殺人的な状況からは逃れられると思う。

およそ美術というものに少しでも興味がある人にとっては、必見の展覧会だ。意外に思う向きも多いと思うが、実は永徳の個展に類するものはこれまで開催されたことがない。なぜかというと、まずそもそも永徳は真筆と断定できる作品の絶対数が少ない。そしてさらに、そのほとんどが国宝や重文(そして「御物」)であるため、代表作をすべて借用して開催する展覧会は極めて困難だということもある。しかし、それがいまここで実現している。「京都で30日間だけの奇跡」という宣伝文句は、あながち誇大でもない。

まず、「洛中洛外図屏風」(国宝)、「花鳥図襖」(国宝)、「唐獅子図屏風」(御物)、「檜図屏風」(国宝)という代表作がすべてひとつの会場で見られるということに素直に驚きを禁じえない(ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と「最後の晩餐」と「岩窟の聖母」と「受胎告知」が一堂に会しているようなものだ)。加えて「許由巣父図」(重文)「群仙図襖」(重文)「足穂蒔絵下絵」(重文)といった永徳展には欠かせない重要作品も何一つ欠けてはいない。さらに近年発見の「花鳥図押絵貼屏風」、新発見の「洛外名所遊楽図屏風」、あまり知られていなかった「織田信長像」といった話題作の数々。初公開品を含む興味深い書状や、原家に伝わる天瑞寺障壁画縮図、狩野山楽の龍図縮図といった資料類も充実しており、永徳展としてこれ以上に完璧な作品リストはあり得ないというのが正直な感想だ。とかく美術史上の評価や知識だけが先行しがちな狩野永徳という絵師の驚くべき実力を、肉眼でたっぷり味わうことができる。「花鳥図襖」の自由自在な水墨の技、緩急巧みな線の超人的な表現力。「洛中洛外図屏風」の詳細極まりない描き込み、見るものを都市という錯綜したテクストの中に包み込んでしまう卓越した構成力。「唐獅子図屏風」に向き合った者が感じざるにはいられない「巨大さ」と圧倒的な迫力。百聞は一見に如かず、とはこのことだ。

並べられた作品自体が永徳という人の巨大な才能を雄弁に物語っているため、当初考えられていた展示のコンセプトはいくぶん背景に退いてしまったように思われる。すなわち、従来は「伝永徳」「永徳周辺」とされてきたちょっと泥臭い画風の作品の数々を、「若描き」ではないかと提示すること。これは、これまで20代の作品とされてきた水墨の基準作「花鳥図襖」の制作年代をずっと後の40代にもってくるということとリンクしており、美術史研究上はかなり重要な問題提起だ。まあ、いざ並べてみたら永徳自身に「そんなことどうでもええやん」と言われてしまった感じだが・・・。でもこれから観る人は、「二十四孝図屏風」や「四季山水図屏風」や「老松竹虎図」といった水墨画にもぜひ注目して頂きたい。子供の頃から水墨画を愛し、鯉を愛でていたというちょっと変わった学芸員、山本さんの思いはそのあたりにもあるので。

これだけ完璧なコレクションなので、展示方法に関しての不満はやはり感じてしまう。「花鳥図襖」はやはりできるだけ部屋での位置関係を再現する方法で展示するべきだったのではないだろうか。これはあの古い展示室の構造に由来する問題で、仕方がないといえばその通りなのだが、あれでは永徳の空間プロデューサーとしての才能が全く伝わらない。聚光院であの襖絵を拝観したことのある人だったら誰でも感じると思うのだが、ガラスケースの中に陳列された襖絵はまるでミイラのようで、寺の空間では感じた生命力のようなものがきれいさっぱりなくなっている(それでももちろん絵の凄さはわかるのだが)。できればもうひと踏ん張りしてほしかった。そしてまた「洛中洛外図屏風」は、一列に並んで少しずつ動きながら見るような絵ではないことも確かだ。しかしこれも仕方がないといえばその通り。フラストレーションがたまった人は、ぜひ来年のGW直前の平日午前中に米沢市上杉博物館に行くべきだと思う。想像以上の体験ができるはずだ。

会期は18日まで。「待ち時間」に躊躇せず、時間つぶしのための文庫本かipodを持って、覚悟を決めて観に行くことをおすすめします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マンボ!

Photo大阪シンフォニカー交響楽団の第121回定期演奏会を聴いた(11月2日、ザ・シンフォニーホール、指揮:大山平一郎)。このオーケストラを聴くのは実は初めて。「VIVA!アメリカ」と題されたプログラムで、バーンスタイン、ガーシュイン、バーバーといったアメリカ人作曲家の有名曲が並ぶ。大山はヴァイオリニスト・ヴィオリスト出身の指揮者であり、1979年にはロスアンジェルス・フィルハーモニックの首席ヴィオラ奏者に就任している。楽団のホームページに掲載されている大山の文章によると、今回のプログラムはすべてバーンスタインと共演した経験のある曲とのこと。「レナード・バーンスタインに捧ぐ」というタイトルでも良さそうな演奏会だ。

バーンスタイン:「キャンディード」序曲
ガーシュイン:ピアノ協奏曲へ調(ピアノ独奏:小川典子)
バーバー:弦楽のためのアダージョ
バーンスタイン:「ウエスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス

「キャンディード」序曲のようなタイプの曲は(ショスタコーヴィチの「祝典序曲」などと同様)、いきなり猛スピードでスリリングに突っ走ることで聴衆を一気に興奮させることができると思うのだが、この日の演奏はややローギア発進。しっかりしていて堅実ではあるのだが、もうちょっとスピード感はほしい。複雑なリズムの変化にもややぎくしゃくした部分が感じられた。しかし次のガーシュインの協奏曲は素晴らしい演奏。これは独奏の小川の功績が大きいように思う。ガーシュインの音楽が一般的なクラシックのレパートリーと明らかに異なっているのは(そして実際の演奏において一番大きな問題となってくるのは)、そのリズム感覚だ。多くのポピュラー音楽と同様、2拍4拍のバックビートの意識を常に保つことや、いわゆるビートの「ウラ」に乗ることができないと、ガーシュインの音楽はとたんにもっさりとした「ジャズ風味クラシック」に成り下がってしまう。しかし小川はこのあたりが実にちゃんとしており、安心して気持ちの良い音楽の流れに身を任せることができた。私がクラシックのピアニストで不満を感じることが多い第1楽章のアレグロ・モルト(練習番号22)でもキレのあるリズムが音楽を引き締めていて見事。この小川のノリに導かれてオケも実にダイナミックな演奏を展開した。ただ、第2楽章の聴き物であるトランペット・ソロ、もちろん「ブルース」を意識して工夫した結果なのだろうとは思うが、ずりあがるフレージングの連発がややステレオタイプな「ジャズ・トランペット」に聴こえたのは残念。かなり意欲的でがんばったとは思うが。しかし全体的には素晴らしい仕上がりで、実に楽しく聴けた。

バーバーのアダージョはロマンチックにうねる方向性ではなく、地味ではあるが響きを丁寧に紡ぐタイプの演奏。そしてシンフォニック・ダンス。大山は前述した楽団のホームページの文章で、この曲をバーンスタインの指揮で演奏したときに強い印象を受けたことを書いている。私は実演は初めてだったのだが、ドラムセットを含む打楽器の饗宴、バリバリと吹きまくる金管、指パッチンや有名な「マンボ!」の掛け声・・・もともとミュージカルの音楽だということもあるが、完全にシンフォニック・オーケストラの範疇から逸脱している曲という印象だった。バーンスタインは明らかにビッグ・バンドの音響をオーケストラから引き出そうとしている。そしてそんな音楽がこの指揮者とオーケストラには合っていたのだろうか、これも実に楽しい演奏だった。

ここのところ首席奏者がガンガン抜けて、思わず「大丈夫か?」と心配したくなってしまう大阪シンフォニカーだが、私の初体験は悪くなかった。指揮者やプロとの相性が大きかったとは思うが、またこのオケを聴きに行ってもよいと思えるだけの充実した内容だった。

マンボ!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2007年10月 | トップページ | 2008年1月 »