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メメント・モリ

193

Kremer / Kremerata Baltica
Korpacheva(S) Kuznetsov(B)
Mahler: Symphony No.10 - Adagio
Shostakovich: Symphony No.14 op.135

クレメラータ・バルティカの最新作は「死」をテーマにしたふたつの交響曲。マーラーのアダージョは、ハンス・シュタットルマイヤーとクレメラータ・バルティカによる弦楽合奏版への編曲(今年の来日公演でも演奏していたようだ)。7・6・4・3・2の小さな編成、指揮者なしのアンサンブルによるアダージョは、フル・オーケストラ版に比べてマーラー特有の軍楽隊的なニュアンスが欠如してしまう(皮肉なトーンが見えにくくなってシリアスになる)嫌いはあるが、墨絵のような透明感を表出することで、より抽象的な精神のドラマとしてこの曲を描き出そうという意図が見える。厳しく美しい。

ショスタコーヴィチの14番も、このアンサンブルの冷たく透明な響きによって悲劇性を強く打ち出した演奏。2004年ウィーンでのライヴだが、その技術的な完成度は実に高い。2人のソリストも各曲の性格を表情豊かに描き分けている・・・のだが、どうも何かが物足りない。それは何だろうと考えて、この曲の演奏史を考える上で外せないバルシャイ/モスクワ室内管弦楽団の録音(スタジオ盤)を改めて聴いてみた。わかった。このクレメラータ・バルティカの演奏、クールすぎるのだ。バルシャイ盤の「De profundis」を聴いてみよう。これも実に冷徹な感じだが、ヒリヒリするぐらい音にエネルギーがこもっている。ウラジミロフが歌いだすと、言葉では形容できないロシア独特の臭気が漂ってくるではないか。そして「Malaguena」。狂ったように駆け上がる、しかし一糸乱れぬヴァイオリンのアンサンブル。ミロシニコーワの弾け方は尋常ではない。クレメラータ・バルティカ盤に欠けているのは、このエネルギーだ。それは、あるいはソ連という国の存在がもはや遠くなりつつあることを示しているのかもしれない・・・。改めて強調するが、演奏のレヴェルは高い。ただ、今後どのようにショスタコーヴィチを演奏していくべきか、という問題がここにはある。

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熱帯有機的アブストラクト

Ua






UA Tour Golden Green 07 @梅田芸術劇場(大阪)

<セットリスト>
01. 雲がちぎれる時
02. 黄金の緑
03. Melody lalala
04. 大きな木に甘えて
05. 男と女
06. 情熱
07. トュリ
08. The Color of Empty Sky
09. ファティマとセミラ
10. Paradise alley / Ginga cafe
11. リズム
12. 踊る鳥と金の雨
13. Panacea

14. 閃光
15. Moor
16. スカートの砂
17. プライベートサーファー
18. 水色

UA(vo) 内橋和久(g) 鈴木正人(b) 外山明(ds) 太田美帆(vo)
青木タイセイ(tb) 塩谷博之(cl) 権藤知彦(flh, euphonium)

舞台上にたくさんの樹木を配置して、森の中で演奏しているようなイメージを喚起するステージ。ギタートリオ+3ホーンのバンドは、やや小さくまとまっているような印象もあるが、コール&レスポンスの感覚が鋭敏で悪くない。中ではやはり外山明の演奏が面白い。リズム・キープから離れてフリーな感覚でのプレイに入ったときの瞬発力には瞠目させられる。立ち上がってのプレイも視覚的なインパクトが強い。内橋和久は思ったより堅実な印象だがバンドの統率力は強く感じられるし、鈴木正人は相変わらずクール。リズム的に自由で即興的要素の多いギタートリオと、しっかりとアレンジされたハーモニーで音楽を色づけていくホーン・セクションとの対比がこのバンドの妙味だ。キーボードが入っておらず、弦楽器と打楽器と管楽器の響きが生々しくぶつかることで作られる、乾いた感じの音像も魅力的。

UAは最初のうち高音が出ずにちょっと調子が悪そうに思えたが(ツアー終盤でノドもかなり疲れてきているのかも)、しだいに復調。フェイクというのかスキャットというのか、森の中の動物の鳴き声のようなヴォイス・パフォーマンスは彼女の得意技だと思うが、面白い(オノ・ヨーコも感慨を新たにするだろう)。とにかく個性的な声に強い魅力がある人だ。アンコールの「Moor」後の3曲は「愛のリクエスト・コーナー」。観客からの「全部やればええやん!」「・・・私いちおうデビュー12年ぐらい経ってるんだけど」には笑ってしまった。そして政治的なステートメントについては、観客ひとりひとりが考えれば良いことだと思う。ナイーブと批判することはたやすいが、公の場で9条や六ヶ所村のことについて呼びかける勇気に対してとやかく言うことはできない。ただ、話はもっと上手にしたほうがいいとは思うが。

印象としてはアブストラクトなのだが、貝殻の構造を見ているように有機的な作りの音楽である。そして、熱帯のイメージがある。ちょうど初期フリー・ジャズの思想のひとつにアフリカ回帰があるように、南方的要素を強く感じさせる音楽。「turbo」期の曲がこのバンドに非常にマッチすることも発見した。

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ファウスト博士 vs 巨匠レーピン

Beethoven: Violin Concerto; Kreutzer Sonata Beethoven: Violin Concerto; Kreutzer Sonata

Beethoven: Violin Concerto, Violin Sonata No.9 "Kreutzer"
Faust(vn) Belohlavek / The Prague Philharmonia, Melnikov(p)
(左)
Repin(vn) Muti / Wiener Philharmoniker, Argerich(p)(右)

同じ時期に全く同じカップリングでリリースというのも珍しい。何やら挑戦的だが、おそらく単なる偶然だろう。どちらも私の贔屓のヴァイオリニスト。ファウストは新日フィルの定期でのハルトマンの葬送協奏曲が忘れられない(シマノフスキの1番の予定だったのだが、当日プログラムが変更された。素晴らしいサプライズ)。レーピンはまさにこの協奏曲をアシュケナージ/N響で聴いたことがある(NHKホールの最前列、P席)。

まずは協奏曲。ファウスト盤のオケの編成は小さく、弦が8・6・5・4・3。ヴィブラートを控えた奏法もピリオド・アプローチからの影響を感じさせる。この透明ですっきりとした響きのオケに支えられて、鋭くフレッシュなファウストの美音が冴え渡る。とくに高音の弱音などため息が出るような美しさだ。ブックレットにカデンツァのクレジットはないが、ベートーヴェンによるピアノ協奏曲編曲版のカデンツァをベースにしているようだ。第2楽章末のカデンツァも省略せず、かなり気合を入れて弾いている。目の覚めるような鮮やかなベートーヴェン。

対照的に、レーピン盤ではウィーン・フィルの分厚い弦の響き、コクのある管の音色が冒頭から聴く者に迫る。レーピンは実にあたたかく柔らかい音色。第1楽章から歌心に溢れており、ゆったりとしたテンポでたっぷりと旋律を歌わせていく。高音のカンタービレももちろん良いが、中低音域の響かせ方にこの人の大きな魅力がある。カデンツァはクライスラー。「ヴァイオリン協奏曲の王者」というキャッチコピーが似合いそうな、巨匠の風格たっぷりの演奏だ。

次にクロイツェル・ソナタ。ファウストは気心の知れたパートナーとの丁々発止のやりとりで聴く者を飽きさせない。レーピンのパートナーはなんとアルゲリッチ(!)。ヴァイオリニストを食いかねない大迫力の演奏に、レーピンはしっかりと組み合ってスケールの大きい表現を見せている。この曲は本当にヴァイオリンとピアノの格闘技だ。

ベートーヴェンの協奏曲は、誤解を恐れずに言えばひたすらスケールとアルペジオの連続。重音も第3楽章の第2主題まで出てこない。だからこそ、ヴァイオリニストの持っている音の質と音楽性が如実に現れてしまう怖い曲だ、と改めて思った。

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車到山前必有路

あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅
城戸久枝「あの戦争から遠く離れて」情報センター出版局

著者の父は中国残留孤児。まだ日中国交回復前の1970年というとても早い時期に、文化大革命さなかの中国から命がけで日本に帰国した。自らの父が辿った数奇な運命を、10年の歳月をかけて調査しまとめあげた大変な力作だ。

前半が父の半生の物語。混乱の中で実の父母と別れ、運命のつながりで中国の養父母にもらわれ、農村の貧困の中で苦労しながらも自分が日本人であるという意識を高めていく。戦後の中国の政治的社会的混乱をかいくぐりながら、自力で必死に帰国の道を探り、奇跡的に帰国に成功する。これはすぐに映画化されてもおかしくない、まさに事実は小説より奇なり、というドラマチックな物語だ。後半は、この本を書き上げるに至るまで、中国という国とそこに生きる人々に向き合ってきた著者の青春の旅路。自らにつながる歴史を探っていく中で、日本の若い世代のひとりとして現代の中国を見つめる著者の姿は、父の物語にも劣らず感動的だ。

日本と中国との間の過去の戦争や現代の関係は、著者にとっては決して単なる歴史上の、あるいは時事的なトピックなのではなく、自らの存在そのものに直接的に関わっていることだ。これだけ熱のある(しかし決して感情過多に陥ることのない、とても冷静な)文章は、自分の根っこに深く関わっていることについてでなければ書き得ない。頭ではなく心で書いているということが読み手に深く伝わってくる。

日本と中国の関係に向ける著者のまなざしは、とても信頼できるものだと感じる。これからも中国と日本をテーマにしたノンフィクションを書き続けていってほしい。「車到山前必有路」、いい言葉です。

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In the Flat Field

フラット革命
佐々木俊尚「フラット革命」講談社

2007年現在、インターネットが日本社会の言論に与えている影響をリアルに描き出している本。インターネットに接することを生活の一部としている人ならばとても身近に感じるであろう具体的な事例の数々が、議論の説得力を高めている。インターネットが既存のマスメディアの影響力を低下させ、個と個の言論が対等にぶつかりあう「フラット化」が進行する中で、日本社会は新たな「公共性」を確立することができるか、というのがこの著作のテーマとなっている。

言論のフラット化は避けようのない現象であり、しばらくは混乱が起きるものの、ネットというオープンな場での個と個の議論が続く以上、その結果としての公共性は確立しうる、というのが著者の到達した結論である。「ラディカルな民主主義」。なるほど、論理としては良く判る。しかしながらこの結論に対し、そんなにうまくいくものだろうか、という思いが拭えないのも正直なところだ。もちろん、インターネットのフラットな荒野でノイズに身をさらしながらも、セレンディピティによる出会いと対立を生きることができる人もいるだろう。しかし理由は様々であれ、そこに参加できない人々、あるいはそのように生きられない人々は予想以上に多いのではないだろうか。「ラディカルな民主主義」はそのような事態までを包含できるのか。そのときにマスメディアは、意外と力を持つのではないか?など。

インターネットの普及がポスト近代社会をもたらす、という基本的な視点に異論はない。しかしネット世界が一方的にリアル社会を凌駕し、変革するということはあり得ない。両者の死に物狂いの食い合いの中で、新しい社会秩序が誕生してくるはずだ。それはもしかしたら、悪魔的なものかもしれないが。

暗闇の天使 (紙ジャケット仕様)

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静聴せよ!

Morimura_2森村泰昌「美の教室、静聴せよ」展@横浜美術館

名画や女優に扮するセルフ・ポートレイト作品で有名なモリムラ氏の個展は、展示会場を「教室」に見立てて授業形式でガイドする啓蒙的スタイル。参加者は音声ガイドによってモリムラ氏の解説を聴きながら、1時間目から6時間目までに分かれた各教室を回ることになる。

自分のアートを見る人にもっと身近なものにしたい、自分のやっていることを多くの人にわかりやすく語りかけたいというモリムラ氏の真摯な思いが生み出したスタイルと言えるだろう。実際モリムラ氏の解説はとてもわかりやすく、彼が西洋美術の歴史に対してどのように向き合っているのか、どのようなアプローチで作品に取り組んでいるのかが伝わるようになっている。「ゴッホの帽子は茨の冠だ」「フリーダ・カーロは立派なヒゲを目の上につけた女性である」といった指摘も面白い。これはモリムラ流の西洋美術史講義なのだ。しかし、音声ガイドにはおそらく誰もが一番モリムラ氏に訊きたがっているであろう質問、「何で真似るのか」ということに対して明確な答えはない。あるいはそれはこの展覧会全体を通じて考えるべきことなのかもしれない。

「放課後」として設定されたミシマ・ルームのビデオ・インスタレーションは圧巻。薔薇刑の人形が横たわる部屋の巨大なスクリーンで、三島に扮して現代アートの危機を訴えるモリムラ氏の姿は、そのストレートなメッセージともども強烈だ。いやあ、本当に真面目な人なんだと思う。ちなみに、モリムラ氏が演説している場所は大阪城公園の中にある旧第四師団司令部庁舎(さすがにすぐわかった)。

もちろん、ここで語られていることがモリムラ氏のアートのすべてではないし、作者が語ってしまうことで作品が見えなくなってしまうマイナス点も十分認識されているだろう。それでも自分の表現について、そして現代日本のアートの現状に対する危機意識について、人々に自分の思いを語りかけたいというモリムラ氏の強い意思が伝わってきた。サービス精神満点の、意欲的な個展であったと思う。

最終試験は全問正解。ほっとした。

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描くことの快楽、見ることの愉悦

Yamaguchi_2

「山口晃展 今度は武者絵だ!」@練馬区立美術館

やまと絵の手法をコンセプチュアルに取り入れながら、古今東西の風物が入り乱れる不思議な風景を卓越した描写力を駆使して描いてきた画家、山口晃(1969-)。私が彼に注目するようになったのは3~4年前ぐらいで、それほど古いことではないのだが、最近では仕事を通じて作家本人とも何度か話をすることがあり、さらに彼の作品世界を身近に感じている。今回の個展は、彼が以前から手がけている「武者絵」的な一連の作品を中心に、彼の名が広く知られることになった広告や挿絵の仕事も含め、これまでの画業を大きく振り返るものになっている。

今回の個展のための新作は52点組の劇画「続・無残ノ介」(2007)。妖刀ストーリーを物語絵巻のように描いた「無残ノ介」(2004)の続編だ。もともとが劇画を擬古的に描いたものだったのだから、今回は言ってみれば「劇画そのまんま」なのだが、この作家ならではのサービス精神が横溢していてついつい面白く見てしまう。山口は芸大卒業制作の「山乃愚痴明抄」(1995)に漫画を登場させるなど、物語絵巻と漫画の手法の類似には以前から意識的だったと思われるが、もうここまで来るとそんなコンセプトなどどうでもいいという思いも透けて見える。山口の作品において、アート/漫画という区別などもはや意味を持たないということも事実。そこに、現在の彼の立ち位置が見えてくる。

出展作品の中に、参考資料として高校時代の教科書がある。中村光夫の文章の間に描かれた小さな落書きは、山口晃という画家の本質を突いているような気がしてならない。彼の絵を見る人は誰でも、画面を埋め尽くす何百人という人物の顔かたち、仕草、服装、小道具、そして所狭しと立ち並ぶ奇妙な建造物のディテールを、まるでミニアチュールのように細密に描き込む画家の驚くべき集中力と類まれな手技に強い印象を受けるだろう。そしてその作品が、「描くこと」に対する生理的な快感から生み出されていることを直感的に感じ取るに違いない。実際に、山口がいつも持ち歩いているスケッチブックに鉛筆ですらすらと人物や建物を描いているのを見たことがある人であれば、彼が生まれながらの「絵描き」であることを認めざるを得ない。もちろん、山口はとてもコンセプチュアルな一面を持つ画家である。しかし、どんなにコンセプチュアルな傾向を強く打ち出した作品においても-この方面の代表作のひとつである「頼朝像図版写し」(1999)においてでさえ-画面からは「描くこと」の生理的快感が否応なしに伝わってくる。彼の作品におけるあらゆるコンセプトは、この生理的快感を正当化するための言説に過ぎないのではないかと思えるほどだ。授業そっちのけで教科書やノートの隅への落書きに熱中する山口少年の姿は、どの作品にも見て取ることができる。そして彼の作品を見る人は、その細密なディテールを画面に顔を近づけて舐めるように味わうことで、彼の快楽の共犯者になるのだ。

多くの人が山口晃の名前を知ったのは、三越百貨店のポスターや公共広告機構の車内広告、雑誌の表紙や槙原敬之のCDジャケットだったのではないだろうか。山口は従来の現代美術の領域を超えた活動を行い、そこではファイン・アート/イラスト/漫画というような区分は無効なように思える。根底にあるのは「描くこと」(あるいは「見ること」)の生理的快感に対する絶対的な信頼であり、それはどんな作品においても変わることはない。様々な分野における彼の代表作を集めた今回の個展において、そのことが的確に示されていたように感じた。

9月17日まで。

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セルフ・ドキュメンタリーの陥穽

Belief






「belief」 土居哲真監督、2007年、日本。

ある日、母が統一教会に献金をしていることを知った監督が、母がなぜそのような行為に至ったのかを、母を含む家族や学者や統一教会の信者(顔出しなし)へのインタビューを行いながら考えるセルフ・ドキュメンタリー。撮影は監督自身が民生のDVで行い、編集も自ら手がけている。以下ネタバレ注意。

最近、セルフ・ドキュメンタリーの話題作が多い。現代日本に生きる人間にとって「リアル」な社会関係の範囲が狭まっていることを象徴する現象のように思えるが、セルフ・ドキュメンタリーの手法自体が安易だとか、社会性がないとは私は決して思わない。むしろ、作家が「リアル」に感じた自分自身や家族の問題を徹底的に考え、映像で突き詰めていくことで、私たちがいま生きている世界のあり方が透けて見えてくるように思える。それこそがセルフ・ドキュメンタリーの「可能性の中心」であろう。

この作品はどうだろうか。多少の作品情報をもとにして、観客はこれはカルトを扱った物語だと思って映像を見始めるに違いない。お世辞にも上手いとは言えないカメラ・ワークやぎこちない編集のリズムに戸惑うが、これは不作為の演出と好意的に解釈することもできるだろう・・・。しかし見ていくうちに、この作品のテーマはどうやらカルトではないということに気づく。カルトがテーマであれば、カルトの「内」と「外」の関係が問題となって話が展開していくはずだ。しかしこの物語は母親がすでに統一教会を脱しているところから始まっている。そして母親が統一教会に依存したのは父の死によって家族の統一感が失われたため、さらに自分が心の病になったことで母親に心労を与えたためではないかという内省に話は移り、最終的には兄に新しい子供が生まれることによって家族の新しい秩序が予感されるという結論に至る。つまりこれは母親の事件をきっかけとしてはいるが、監督が自らの家族(生家)についての思いを綴った叙情的なホーム・ムーヴィーなのだ。監督はカルトについて考察した文章をパンフレットなどに記載しているが、この作品の本質にカルトの問題は全く関係していないと私は思う。

問題は、このことを監督がどうやらきちんと自覚していないということなのだ。おそらく、母の統一教会への関与という事件にショックを受けてカメラを回し始めたが、撮っているうちにその背後にある自分と家族のテーマに関心が移っていき、最終的にもそのふたつが混在した形で編集(=作品化)が行われているというのが実際のところだろう。しかし、監督はどちらの問題を語りたいのかをはっきりさせるべきだと私は考える。片やカルトについての考察に時間をかけ(専門家へのインタビュー)、片や家族への思いを叙情的な映像で表現することで、非常に中途半端な印象を見る人に与えるのだ。カルトについての考察は「なぜ母がそうなったのか知りたい」という情緒的な側面に流れ、社会問題として突き詰めることを放棄してしまっている。家族への思いはもちろん伝わってくるが、それを映像作品として第三者に見せる意味はほとんどわからない。「カルトの問題を通じて家族を描いた」という考えなのかもしれないが、ドキュメンタリーで言えるメッセージはひとつしかないというのが私の意見だ。

全編をねっとりとした感触の映像が支配している。監督は明らかに自らの内面世界の暗闇を見つめ、それを映像に表出しているのだ。その意味で非常に正直な作品ではある。家族を撮ること、母親の事件を探求していくこと自体が、監督にとって自らの心の問題を解決していくための行為だったことは容易に想像できる。しかし、その撮る行為によって生まれた映像がそのまま「セルフ・ドキュメンタリー」の作品になるかというと、それはやはりちょっと違うと思わざるを得ない。これらの映像はあまりに作者に近すぎて、作品として自立した強度を保っていないと私は考える。

要は、監督にとっての現実のインパクトを客観的に消化できていないまま見せてしまっていることがすべての問題だと思う。ここで語られていることはまだ「私」の範囲内に留まっており、作品としての突き詰めが全く足りないと感じる。もちろん、中にはこの大混乱状態を面白いとか、リアルだと思う向きもあるだろう・・・評価は自由だ。しかしドキュメンタリー作品としては失敗していると私は思う。なお、出演者の肩書きを作中でスーパーしないのは、意図的だとすれば面白い。どのような立場から語っているのか、肩書きで予見させないという効果がある。

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クレムリンの秘宝

Russia






ロシア皇帝の至宝展@国立国際美術館

実はジュエリーの類はあまり得意ではないのだが、ちょっと仕事上の知り合いが絡んでいたりもするので、会期が終る前に一度見ておこうと思って行ってみた。国立モスクワ・クレムリン博物館のコレクション。私は子供の頃モスクワに住んでいたので、この博物館には何度も行ったことがある(行ったことのない人はご存じないかもしれないが、クレムリンはモスクワ最大の観光スポットのひとつであり、割と簡単に中に入れる)。ロシア皇帝の宝物がこれでもかとばかり展示してある博物館だ。今の館長はあの宇宙飛行士のガガーリンの娘とのこと。

宝飾品だけでなく、イコン、食器、衣装、武具や馬具、絵画もあり。会場は雰囲気のある暗めの照明。高貴な光を放つ金や銀、色とりどりの宝石やビーズ、スパンコールによる精密な装飾には目を奪われる。中世から近代にかけてのロシアの歴史を改めて思い出すし、西欧の洗練と土着的な装飾感覚が入り混じったようなロシア独特の美意識も興味深い。しかし・・・このジャンルに対する感受性がやはり私は欠けているようだ。今回の目玉はファベルジュの「クレムリンエッグ」(1904-06)のようなのだが、私にはどうも良さがよくわからない。会場には女性の姿が多く見受けられ、それなりに盛況なのだから、きっと楽しみ方のツボはあるのだろう。ちょっと悔しい。しかしながら、イコンは面白い。勉強になったのは、イコンはオクラドという金銀宝石の装飾が加えて飾られるということ。それにしてもよくロシア革命とソ連時代を超えて生き残ったものだ。一体どれだけのものが失われてしまったのか、暗澹たる気持ちになる。

実は一番興味を惹かれたのはウスペンスキー大聖堂のヴァーチャル・リアリティ映像だった(ほとんど職業的な興味だが)。凸版印刷がこのヴァーチャル・リアリティ映像の技術を開発しているという話は知っていた。ゲーム・コントローラーのようなもので仮想空間の中を自由に動き回れるというもので、美術館での展示への応用に力を入れているらしい。今回は操作なしの展示映像だったのだが、ウスペンスキー大聖堂の中を視点が自由に移動する様子を見ながら、これはやっぱり何かに使えそうだな・・・と考えていた。細部までしっかりと作られた、素晴らしいCGだった。

9月17日まで。

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アメリカの富の恩恵

Philadelphia






フィラデルフィア美術館展 印象派と20世紀の美術@京都市美術館

夏の間は私事で忙しく、なかなか美術展に足を運ぶことができなかったので、会期の終りそうな美術展をいま慌てて回っている。このフィラデルフィア美術展もそのひとつだが、かなり前から大掛かりに宣伝していたので期待していた。

昨年仕事でアメリカに行っていたときに、フィラデルフィア美術館の真ん前まで行ったのだが時間がなくて中に入ることができなかった(ちょうどワイエスの大回顧展をやっていた・・・残念)。巨大な美術館である。中でも名高い近現代絵画のコレクションによって構成されているのがこの展覧会。写実主義、印象派、ポスト印象派、キュビスム、エコール・ド・パリ、シュルレアリスムという教科書的な流れで展示されているが、とにかく作家のセレクトが巨匠ばかり。コロー、クールベ、ブーダン、マネ、ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、ロダン、ルソー、ピカソ、ブラック、レジェ、カンディンスキー、マティス、ルオー、デュシャン、クレー、ブランクーシ、モディリアーニ、ユトリロ、シャガール、キリコ、ミロ、マグリット等々。西洋美術の教科書みたいな実にオーソドックスな展示になっているので、お勉強をしたい人にはとても良いかもしれない。本物を見るのは大事なことだ。

19世紀末から20世紀にかけてのアメリカ人コレクターの信じられないほどの金持ちぶりにただただ驚嘆するばかり。美術史的にも重要な作品がずらずらと並んでいるのでとても嬉しいのだが、ついついじっくり見て疲れてしまうのが難点か。印象派もいい作品が出ている。モネは新国立美術館のモネ展でさんざん見たので食傷気味かと思いきや、「ポプラ並木」(1891)や「睡蓮、日本の橋」(1918-26)にはやっぱり見入ってしまう。今回はキャンバスに塗りたくられた絵の具の質感に妙に惹かれる。アースカラーを使わず、光を表す白をたっぷり混ぜて作られた輝く色彩。ポプラの幹のぬるっとしたピンクの絵の具など、何だかアイスクリームみたいで美味しそうだ。指ですくって舐めたい。晩年が抽象表現主義に近づいているというのはよく言われることだが、ザーッと塗ったくった太鼓橋のディテールを眺めていると確かにポロックと全く変わらない。そして両者に共通しているのはとても瞑想的だということだ。

ちょっと面白いのは、キュビスムの展示が充実していること。コレクションの傾向を反映しているのだろうか。ピカソとブラックだけではなく、ドローネ、グリス、グレーズ、メッツァンジェというややマイナーな作家も出ている。アポリネール追悼として描かれたというピカソの「三人の音楽師」(1921)はピカソ、アポリネール、マックス・ジャコブを表しているということで興味深い。こんなに大きな作品だとは思わなかった。デュシャンの「画家の父の肖像」(1910、どう見てもセザンヌ!)と「チェス・プレイヤーの肖像」(1911)というまるで違う2枚の肖像画が並んでいるのもいい。そして、まるで古代の遺跡から発掘されたようなブランクーシの「接吻」(1919)がこんなところで見られるとは思わなかった・・・という具合で、巨匠の名品がこれでもかこれでもかと出てくる豪勢な展覧会だ。

しかし私が一番心を惹かれたのは、最後にまとめられたアメリカ絵画のコーナー。もちろんここもホーマー、サージェント、カサット、オキーフ、ワイエスと超巨匠揃いなのだが、アメリカ絵画をまとめて見るのは意外と面白い。それまで見てきたヨーロッパ絵画の流れにどのように影響され、どのようなところに独自性があるのかを知ることができる。フローリン・ステットハイマーの「ベンデルの春のセール」(1921)などというのはヨーロッパ中心主義的な美術史観からすると実にたいしたことのない作品だと思うのだが、これはアメリカならではの作品だろう。またマースデン・ハートリーの「ニューメキシコの風景」(1919)は初期ポロックそのもの。以前に芸術新潮でアメリカ絵画の特集を読んだことがあるが、抽象表現主義以前のアメリカ絵画をきちんと整理した形で見てみたいものだ。かなり豊穣な世界がある。

海外の有名美術館のコレクション展はよくある企画だが、ここまで巨匠で固めてくるのも珍しい。それだけ質の高いコレクションがあるということだろう。そのとんでもない財力と審美眼の恩恵を現在受けていることに感謝しつつ、アメリカ人にとってヨーロッパ絵画の伝統とは何なのかを考えた。

9月24日まで。

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夏から冬へ

Country Mouse City House
Country Mouse, City House / Josh Rouse

個人的に偏愛しているシンガー・ソングライター、ジョシュ・ロウズの新作(フル・アルバムとしては7枚目)。前作「Subtitulo」と同じくスペインの Puerto de Santa Maria にある Paco Loco Studio でのレコーディングということで、前作と対をなすアルバムと考えることができる。「『夏』レコード(Subtitulo)を作った後で、もっと『冬』の感じのものを作りたいと思ったんだ」とジョシュ自身が語っていることからも、この2作の対応関係を指摘することができるだろう。

本来、ジョシュはメランコリーの感覚が魅力的な人だ。彼の歌からは、灰色の雲に覆われた空や人気の少ないくすんだ色の町、そしてひとりきりで過ごす夜の孤独感が伝わってくる。その点で、前作はこれまでのジョシュとはちょっと違った作風のように感じられ、「あれっ?」と思ったものだ。いつも通り感傷的ではあるのだが、どこか温かく、曲によってはとても開放的な幸福感すら漂ってくる。言われてみれば、確かに「Subtitulo」は白い漆喰の壁に照りつける強い陽射しや物憂げな午後の空気、そして終わりへの予感-夏の美しさはそれがすぐに過ぎ去ってしまうという感覚と切り離すことができない-に満ち溢れている。初めて聴いたときにはそこまで感じ取ることができなかったが、スペインでのレコーディング、そして新しいスペイン人の恋人 Paz Suay の存在がこの変化をもたらしたのだろうということは想像していた。

その意味で、今作は従来のジョシュの持ち味に立ち返ったアルバムということができる。「死、孤独、自然、宗教、夢といったテーマがある」と彼自身は語っているが、淡い幸福感に包まれながら現実の孤独を遠くから見つめているような感覚がここにはある。アルバム冒頭、ふわふわしたノスタルジックなメロトロンの響きで始まる「Sweetie」は素敵なラヴ・ソングだが、その幸福感はどこか宙に浮いたままで、悲しみの予兆を隠すことはできない。低いトーンで歌われるソウルっぽい「Italian Dry Ice」に続いて、いかにもジョシュらしい弾けるようなポップ・チューン「Hollywood Bass Player」が流れ出す・・・。この冒頭3曲の流れが前作と共通していることも、「Subitulo」と本作が対応関係にあることを示しているだろう。前作には「Givin' It Up」というこれまでにはないタイプの曲が入っていて驚きだったが、今作でそれに相当するのはジャズィーな「Pilgrim」。Brad Jones の弾くフェンダー・ローズがいい(なお、彼は今回はプロデュースから外れている)。そしてアルバムの最後を飾るのはその名も「Snowy」というメロウな傑作。まさに「冬」のアルバムだ。

前作では随所に配されたストリングスが隠し味だったが、今作ではスペインのミュージシャンによるブラス・セクションが効いている。そのためか、このアルバムを「カントリー・ソウル」と形容する評をどこかで読んだのだが、私としてはそういうジャンル分けはあまり好まない。確かにジョシュにはルーツ・ミュージックを多少意識したようなところもあるが、基本的には60年代/70年代のシンガー・ソングライターのウォームな手触りを愛する人だ。ブラス・セクションのアレンジはソウル的にもジャズ的にもポップス的にも扱われている。ジョシュの巧みなソングライティングの技と、どうにも癖になる歌声を堪能しているうちにあっという間に38分が経ってしまう(人間の生理に合ったLPサイズの収録時間も相変わらず)。ひたすら優秀なポップ・アルバムだ。

少し前に出た Paz Suay とのプロジェクトEP「She's Spanish, I'm American」も大傑作だったが(私の今夏のサウンドトラックだった)、今作は秋から冬に向かうシーズンにふさわしい。ジョシュも言っている-「7月に出るってことはわかってるけど、みんながこのアルバムを見つける頃にはもう秋だからね」。

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