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桐野夏生「メタボラ」

メタボラ
病を得て、少し入院していました。入院中に1日で読んだ小説。

実は新聞連載中にも時々読んでいて、とても面白いと思っていました。ギンジと昭光という2人の話者、2つの視点の交錯によって編み上げられる物語。そのストーリーテリングの巧みさは相変わらずです。読者には正確な意味がわからない(しかし大まかなニュアンスは伝わる)宮古島方言をそのまま使うことで、昭光という人物の性格を生き生きと描写すると同時に、作品世界のリアリティを高めていく手法も実に効果的。これまでは女の「悪」を描いて定評のあった著者が、現代の若者のするっとした軽いリアリティとその背後にある悪夢のような現実に迫っていきます。その意味では新境地なのでしょうが、最終的にはいつもながらの桐野ワールドが展開されていると言えるでしょう。

物語の構造としては、雄太=ギンジと昭光=ジェイクという対照的な2人の主人公の人生が、最初の出会いから逆カーブを描いていくということになります。記憶喪失だった「僕」は、沖縄という土地で人々との出会いを繰り返しながら「磯村ギンジ」という新たなペルソナを獲得し、人生を構築していく。一方、宮古島の金持ちの息子である「おいら」すなわち昭光は、「ジェイク」という名前を得て「外の世界」に出ていこうとするが、その結果死に向かっていく。物語の過程で「僕」は過去の記憶を取り戻していき、自分が現代社会の中で搾取され尽くしたニートであり、同性愛的傾向の持ち主で、ネット自殺という方法で自らの存在に終止符を打とうとした「香月雄太」であることが明らかになります。すなわち、

雄太=ギンジ  死・貧困・暴力・同性愛・・・
昭光=ジェイク 生・富・平和・異性愛・・・

という二項対立がこの物語の軸として据えられているのです。物語の最初における2人の出会いは、この対極的存在の運命的な衝突であり、ここから2人の人生は逆方向の放物線を描いていくことになります。それはあたかも、死に直面してゼロの存在だった雄太=ギンジが、昭光=ジェイクの豊かな生のパワーを吸収して復活・再生していく(そして昭光=ジェイクは生のパワーを吸い取られることによって逆に死に向かっていく)過程のように見えます。そこには、本書の大きなテーマである本土と沖縄の関係が投影されていると考えて間違いはないでしょう。二項対立を軸とした物語構造の上で、ひとつは現代日本社会における若者の搾取・疎外の問題、そしてもうひとつは消費され消耗していく「沖縄」の問題を描くことが、著者の狙いであるように思います。

確かに、ニートや沖縄だけでなくホストクラブ・DV・中国人労働者・ネット自殺と、新聞の三面記事のようなトピックがこれでもかとばかり詰め込まれていることに、「やり過ぎ」の感を抱く読者は多いでしょう。こういった時事的なテーマに敏感であることは桐野作品の美徳のひとつなのですが、さすがに今回は多すぎる(もしかして新聞連載小説だからあえて過剰にやってみたのでしょうか)。しかし私としては、この「ゴチャゴチャ感」も今回の作品の手触りとして悪くはないかと、やや甘めに判断しています。それよりもむしろ細かいことですが、パラマニ・ロッジに一週間だけいた昭光が、石材店に一ヶ月勤めているはずのギンジを訪ねていって、「すぐに辞めた」と言われる不整合に違和感を感じます。金城と思われる男が嘘をついた、という解釈は小説のマナーとしては明らかにルール違反でしょう。小さいことですが、2人の接点に関する重要な描写なので、気になります。こういうキズは小説全体のクオリティに意外なほど影響してくると思うのですが、いかがでしょうか。

ところで、昭光が「僕」に「ギンジ」という名を与えるという行為は意味深長です。昭光にとって銀次という人物は自らが決して超えることのできない憧れの対象であると同時に、最も軽蔑してやまない憎しみの対象でもあります。そのような二律背反した畏怖の感情を抱いている人物の名前を見ず知らずの人間に咄嗟に与えたことは、この人物が自らの運命を変えていくモンスターであることを本能的に感じ取ったからだ、とも考えられます。そして事実、最後の瞬間まで2人の人生にほとんど交流はないにもかかわらず、物語の中で雄太=ギンジは昭光=ジェイクの生を乗り越えていく存在になるのです。

物語の最後、窮地に追い込まれて死にかけている昭光=ジェイクを雄太=ギンジが救い出し、美しい朝日の中を渡嘉敷島に向かって希望のない船出をしていくアンハッピー・エンディングは、「ポーギーとベス」のラストを思い起こさせます(そう考えれば、昭光の宮古島方言は「ポーギーとベス」の黒人言語に通じるような気もします)。このシーンは自らに生を与えてくれた者への返礼であると同時に、2人の立場が物語の最初とは完全に逆転したことを示す象徴的な場面でもあります。これだけしっかりとした構造を持つ作品は、往々にして神話的な印象を与えるものです。現代社会を舞台にした残酷な神話というのが、この作品に対する私の感想です。秀作。

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