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バベル

バベル-オリジナル・サウンドトラック
日本では賛否両論が続出している話題作。「何が言いたいのかわからない」というような感想は論外として、作品に真剣に向き合った人たちの間でも評価は割れているようです。5月8日の朝日新聞朝刊(大阪本社版)に沢木耕太郎の評が出ていましたが、沢木はこの野心作はついに「傑作」たりえなかったという評価のもと、その原因を分析しています。大まかに言うと、ひとつは異文化を無理なく描くことに失敗しているという点。そしてもうひとつはほとんどの登場人物が類型的に設定されているがゆえに内面を演じ切れていないという点。唯一の例外が菊地凛子の演じたチエコであり、それゆえに菊地の存在がブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、役所広司といったスターよりも際立ったのだというのが沢木の指摘でした。この分析は全くその通りだと思いますし、要は監督が最初に作り上げたプロットとその概念枠組みに固執したことによって生じたマイナス面です。しかしながら、それが致命的な失敗になっているかというと、私には決してそのようには思えないのです。以下ネタバレ注意。

まず最初の点から言うと、確かに日本人として見ると不自然な点はあります。高校生の描写はさほど気にはなりませんが、一番ひっかかるのはいくら富裕層とはいえハンティングが趣味という設定のありえなさでしょう。「欧米か!」という感じですが、物語の舞台が日本に決まったとき、ここだけはプロット上どうしても変更不可能な点だったわけです。しかし逆に言うと、完全に無理があるのはこの点だけ。私にとっては、このくらいの「ありえなさ」は「ロスト・イン・トランスレーション」(ひどい作品でした)に比べれば何てことはないというのが実感です。沢木が指摘するように、ライフルを現地のガイドにあげるという行為も確かに不自然ではあるのですが、これもプロット上どうしようもないところ。そしてこういう不自然な設定が許せるかどうかというのは、そのプロットで監督が表現しようとしていることに共感できるか否かが大きく関わってくるように思います。この作品の場合、この程度のことであれば私は許します。もちろんこれは日本パートについての日本人としての判断なので、モロッコ・パートについてモロッコ人がどのように考えるかということはまた別ですが。

2番目の点については全くその通りだと思うのですが、実はこれこそ監督が意図したことなのではないでしょうか。その意図が本当に最初からあったかどうかはわかりませんが、撮影を進める中で(そして編集の過程でも)、声を発しないチエコが一番ストレートに自らの内面を相手に伝えようとしているというパラドックスが次第に強調されていったことは間違いないと思います。監督が「一番よかったのは、人を隔てる壁について撮り始めたのに、人と人を結びつけるものについての映画に変わったことだ」と語っているのは、制作過程で自分が扱っている主題に対して理解を深めていった結果、作品が変容していったことを示していると思います。プロットとしては、互いに心の壁を作って理解しようとしないことから引き起こされる悲劇を、悲劇のままに描き切ってもよかったのです。アフメッドが撃たれるだけではなく、スーザンもマイクもデビーも死んでしまっても、ラストは同じシーンで終結できます。しかし監督はそのような道には進まず、チエコというパラドキシカルな存在をストーリーの軸に据えていくことで、人と人とが真に結びつくにはどうしたらよいのかをポジティヴに考えるという流れに持っていくのです。確かにコンセプトにこだわりすぎたあまり登場人物の演技は類型化しているのですが、ここでもやはり監督が描こうとするテーマの重要性とその語り口の真剣さを前にすると、私はそれが致命的なマイナスになっているとはとても思えません。

複数の独立したエピソードが時間軸をずらしながら交錯してからみあい、見る人の心の中で共鳴するという手法は「アモーレス・ペロス」「21グラム」と共通しているのですが、本作ははるかに構想が大きいだけに、そこまで緻密に成功しているかと言われればそうではない部分もあります。しかし追求されているテーマは実に普遍的かつ人間的であり、心に訴えかけてくるものだと私は感じました。余計なことですが、「チエコの書いたメモが明かされないのが欲求不満」などという感想も私には理解不能。あれは居酒屋でそれを読んだケンジの複雑な反応と、その後で全裸でバルコニーに立つというチエコの行為から観客が内容を想像するべきものだと思うので、すべてを説明しつくして想像の喜びを奪ってほしいというような意見は私にはとうてい納得できないのです。

映像はモロッコ・日本・メキシコと舞台ごとに色調を変えた美しいもの。アップを多用したハンディの映像の生々しさには好き嫌いがあるかもしれませんが・・・。また特筆したいのは音響設計で、音楽とSEが複雑にミックスされ、さらに「聴こえない」チエコの世界を表す無音状態も効果的にカットインされる手腕が見事です。そしてグスターヴォ・サンタオラヤの音楽もいつもながら秀逸。私もウードという楽器は大好きなのですが、寂寥感のある響きが運命の非情さと人間の心の温かさの両方を感じさせて印象的です。「アラブの楽器で、スペインのギターの祖先で日本の琴にも似ている」というような理屈付けは、まあ後から考えたものでしょうけどね。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督、メキシコ、2006年。

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