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村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

キャッチャー・イン・ザ・ライ
「グレート・ギャツビー」が面白かったので、前に出ていた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も意外といけるのでは?と思って読んでみました。そう、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。「ライ麦畑でつかまえて」ではないのです。この「訳さない」という手は(「グレート・ギャツビー」の「オールド・スポート」もそうだったように)、村上新訳シリーズのトレードマークになりつつあるのかもしれません。例えば、野崎訳に慣れ親しんだ読者の大きな関心はやっぱりアレ、「オマンコシヨウ」がどうなっているかにあると思うのですが、村上訳ではあっけらかんと「ファック・ユー」。もちろん「ファック・ユー」が日本語としてすでに成立しているという前提を踏まえての判断でしょうし、現在の読者にはこの訳のほうが小説で描かれている事態がよくわかるように思います。「訳さない」というのも立派な「翻訳の技術」なのですね。

中学生のとき「ライ麦」(もちろん野崎訳)を初めて読んだ私の印象は、何とも青臭くて女々しい小説だというものでした。それでもこの小説世界に広がるある種の開放感のようなものは魅力的に思えて、「ナイン・ストーリーズ」(やっぱり野崎訳)にも手を伸ばしてみると、確かにそこにも同じ感覚が広がっていました。とはいえ、「ライ麦」に関しては「そこまで重要な小説だろうか?青少年向けの読み物なのでは?」という偏見が私の中に根付いてしまったことは確かです(だから村上訳が出たときも読まなかった)。しかしながら今回村上訳を読んで、自分の中のこの小説に対するイメージは(完全にとまでは言いませんが、かなりの程度)変わったように思います。以前の野崎訳では、主人公ホールデンはやたらめったら自意識過剰で、情緒不安定で行動も落ち着きがなく、純粋であるが故に精神に異常をきたしてしまうような人物という印象でした。ちょっとつっぱったような不良めいたところもあったように思います。私にはかなり異様な人物に映り、全く感情移入できませんでした。しかし今回の村上訳ではぐっと身近なホールデン像となり、ナイーヴな感性を持つごく普通の少年として描かれているようです。精神的な変調も感じさせず、自然に感情移入できます。もちろん私が年齢を重ねたということもあるのでしょうが、2つの訳のホールデン像がかなり違うのは確かであるように思います。ホールデンが子供という存在に示す深い愛情がこれほどまでに伝わってくるとは思いませんでした。そして私が村上訳が素晴らしいと思うのは、私が最初にこの小説を読んだときに感じたあの開放感が文体の中に満ち満ちているからです。これは村上春樹の小説世界とも違う、なにものかであるように思います。

優れた文学作品に寿命はない、これは本当だと思います。しかし翻訳は、どんなに素晴らしいものであっても賞味期限があるようです。とくに「ライ麦」は原文の文体に口語的な要素が強いだけに、その感覚をそのときの日本語に移し変えようとすると、賞味期限はどんどん短くなっていくように思います。「奴さん」とかもう言わないし。日本の出版業界における最近の新訳ブームは、中にはちょっとやりすぎなものもありますが、かつて読んだ古典・名作を新鮮に読み返す良い機会を作っているように思います。いま一番待ち遠しいのは亀山訳の「カラマーゾフの兄弟」最終巻。亀山先生、もうゲラチェックは終ったんですか?

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コメント

身も蓋もないコメントをば。「原語で読もうよ。」

投稿: そぷます | 2007年5月 3日 (木) 07時50分

本当に身も蓋もないコメントありがとう(笑)。言われてみて久しぶりに The Catcher in the Rye のペーパーバックを取り出しましたが(もちろん持ってるんですよ)、2~3頁読んでみて感じる文体のリズムはもちろん日本語の「ライ麦」とも「キャッチャー」とも全く違うものです。同じようなことは、例えばカフカの「城」やブレヒトの詩をドイツ語で読むときにも感じるものだし-ドイツ語特有の息の長いセンテンスのくねくね加減や複合動詞の生み出すニュアンス-、逆に英語になった谷崎や川端は私たちが日本語で(もちろん旧仮名と旧字体の活字で)読んでいるときのニュアンスはそのまま伝わってきません。文学作品には確かに原語でしか味わえないエクリチュールの領域というものがあります。あるいは、それが文学作品の最も「オーセンティックな」鑑賞方法かもしれません。では、原語が読めれば翻訳は要らないのか?そぷます氏による「原語で読もうよ」という提言は、翻訳に関するさらなる創造的な思考への導きになります。

言語は無色透明の媒体ではなく、それ自身に固有の色があると私は考えます。ある言語における思考内容は、その言語のルールによって幾分なりとも規制されている。言語同士の対応関係が非対称的である以上、翻訳という作業は機械的な「移しかえ」にはならず、ひとつの言語のルールに従って表現された内容を別の言語のルールの範囲内で再現するということになります。ですから、言語と文体そのものが作品の実体である文学作品を別の言語に翻訳するということは、実は新しい文学作品を創造していることとあまり違わないと言えるでしょう。翻訳を読むという行為は、原語が読めないからという代替的な意味だけではなく、その訳者によって創造された新しい文学作品を読む、という積極的な意味があると私は考えています。

翻訳によって新しく生み出されたテクストが、さらに創造的なテクストを作り出していくという事例は枚挙に暇がありません。ドイツ語に訳された聖書が、英語に訳された千夜一夜物語が、フランス語に訳されたファウストが、そして日本語に訳されたスローターハウス5が(ご冥福をお祈りいたします…)、何を生み出したか?翻訳文学を読むということは、原語で読むということとはまた別の、テクスト間の相互作用を味わう行為でもあるのです。

投稿: 無弦庵 | 2007年5月 3日 (木) 23時06分

「CDはミュージシャンのではなくプロデューサーの作品だ」みたいな話にも通じるよね。

投稿: そぷます | 2007年5月 4日 (金) 22時31分

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