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「三文オペラ」再訪

三文オペラ ワイル:三文オペラ

所用で東京に行く新幹線の車内ですることがないので、久しぶりに「三文オペラ」に向き合ってみることにしました。残念ながらポータブルDVDなどは持っていないため(それにこの作品の良い映像ソフトも知らない)、岩淵先生訳の岩波文庫を読みながら、ウテ・レンパー、ミルバ他の豪華キャストによる名盤を耳で楽しむというやり方(これはやったことがなかった)。

いいですね。ついつい自分ならどのように演出するだろうか?ということを考えてしまいました。音楽に関して言うと、やっぱりこれはヴァイルの舞台音楽の最高傑作ではないでしょうか。この上なくキャッチー、しかし演劇の中でしっかりと機能している。「俳優が、普通の会話というベースを離れていつのまにか歌をうたっていたことに自分でも気づかないふりをすることぐらい嫌らしいものはない」というブレヒトの命題をきちんと受け止めた「ソング」のあり方は、現代でもまったく新鮮さを失っていないと思います。「メロディーについて言えば、俳優は盲目的にスコアに従わなくてもよい。音楽に逆らってしゃべるというやり方があって、この効果が大きいときもあるのだ」「うたう場合に一番大事なのは、『示している者〔演じる者〕が示される』ということなのだ」。岩淵訳の歌詞もひとつの例に過ぎません。自分ならどのような現代の口語でソングを歌わせるか?

岩淵訳と対照させて聴いて、この名盤にもいろいろと歌詞の省略があることに初めて気がつきました。また、本来の上演にはないジェニー役のミルバの「海賊ジェニー」、カットされた「ルーシーのアリア」が入っているのはCDならでは。「いかにも」な響きを作り出すベルリン・シンフォニエッタの演奏も最高ですが、ふと思ったのはこの曲のスコアはどのようになっているのかということ。クルト・ヴァイル・ファウンデーションはアレンジをどのくらい許してくれるのでしょうか?また調べてみることにしましょう。う~ん、ウテ・レンパー最高。

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村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

キャッチャー・イン・ザ・ライ
「グレート・ギャツビー」が面白かったので、前に出ていた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も意外といけるのでは?と思って読んでみました。そう、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。「ライ麦畑でつかまえて」ではないのです。この「訳さない」という手は(「グレート・ギャツビー」の「オールド・スポート」もそうだったように)、村上新訳シリーズのトレードマークになりつつあるのかもしれません。例えば、野崎訳に慣れ親しんだ読者の大きな関心はやっぱりアレ、「オマンコシヨウ」がどうなっているかにあると思うのですが、村上訳ではあっけらかんと「ファック・ユー」。もちろん「ファック・ユー」が日本語としてすでに成立しているという前提を踏まえての判断でしょうし、現在の読者にはこの訳のほうが小説で描かれている事態がよくわかるように思います。「訳さない」というのも立派な「翻訳の技術」なのですね。

中学生のとき「ライ麦」(もちろん野崎訳)を初めて読んだ私の印象は、何とも青臭くて女々しい小説だというものでした。それでもこの小説世界に広がるある種の開放感のようなものは魅力的に思えて、「ナイン・ストーリーズ」(やっぱり野崎訳)にも手を伸ばしてみると、確かにそこにも同じ感覚が広がっていました。とはいえ、「ライ麦」に関しては「そこまで重要な小説だろうか?青少年向けの読み物なのでは?」という偏見が私の中に根付いてしまったことは確かです(だから村上訳が出たときも読まなかった)。しかしながら今回村上訳を読んで、自分の中のこの小説に対するイメージは(完全にとまでは言いませんが、かなりの程度)変わったように思います。以前の野崎訳では、主人公ホールデンはやたらめったら自意識過剰で、情緒不安定で行動も落ち着きがなく、純粋であるが故に精神に異常をきたしてしまうような人物という印象でした。ちょっとつっぱったような不良めいたところもあったように思います。私にはかなり異様な人物に映り、全く感情移入できませんでした。しかし今回の村上訳ではぐっと身近なホールデン像となり、ナイーヴな感性を持つごく普通の少年として描かれているようです。精神的な変調も感じさせず、自然に感情移入できます。もちろん私が年齢を重ねたということもあるのでしょうが、2つの訳のホールデン像がかなり違うのは確かであるように思います。ホールデンが子供という存在に示す深い愛情がこれほどまでに伝わってくるとは思いませんでした。そして私が村上訳が素晴らしいと思うのは、私が最初にこの小説を読んだときに感じたあの開放感が文体の中に満ち満ちているからです。これは村上春樹の小説世界とも違う、なにものかであるように思います。

優れた文学作品に寿命はない、これは本当だと思います。しかし翻訳は、どんなに素晴らしいものであっても賞味期限があるようです。とくに「ライ麦」は原文の文体に口語的な要素が強いだけに、その感覚をそのときの日本語に移し変えようとすると、賞味期限はどんどん短くなっていくように思います。「奴さん」とかもう言わないし。日本の出版業界における最近の新訳ブームは、中にはちょっとやりすぎなものもありますが、かつて読んだ古典・名作を新鮮に読み返す良い機会を作っているように思います。いま一番待ち遠しいのは亀山訳の「カラマーゾフの兄弟」最終巻。亀山先生、もうゲラチェックは終ったんですか?

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辻惟雄「奇想の系譜」

奇想の系譜

現在まで続く若冲や国芳の再評価を行ったという点で、基本的な文献のひとつ(初版は1970年)。恥ずかしながらちゃんと読んだことがありませんでしたが、文庫になっているのを発見してすかさず購入。図版も多いのであっというまに読めます。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳という6人の「奇想」の絵師の画業を「前衛」として再評価する試み。もちろん現在は全員が復権して圧倒的な人気を誇っているわけですが、この本が書かれた40年ほど前にはこれらの絵師は一般的にはほとんど無名だったわけで、その意味でもこの本の果たした役割は大きいと思います。本書で示唆されている、わびさびなどという美意識を大きく逸脱する形態と色彩が日本人本来の造型感覚であるというインスピレーションは、辻先生のその後の仕事を導いていくものです。それにしても改めてこの6人を並べると凄まじい。若冲のマニアックな細密描写(それが必ずしも正確な描写をめざしたものではないという指摘が面白い)はもう美術にさほど興味のないひとにも馴染みのイメージとなっていますが、蕭白のグロテスク極まりない人物像や、国芳の画面に突然現れる不気味な「かたち」は本当に見飽きないものです。日本画に興味をもちながらも、どこか渋くてとっつきにくいと思っている人にはぜひおすすめしたいと思います。

又兵衛工房についての研究などはさすがに現在のほうが進んでいるので、ここで展開されている辻説にはやや古さを感じるところもあるのですが、それは時代の制約というもの。この名著が現在の読者にもいまだに強いインパクトを持っていることを再確認しました。

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ダリ展 創造する多面体

Daliサントリーミュージアム[天保山]で開催されているダリ展にやっと行ってきました。「ヴィーナスの夢」が広島から来るのを待っていたら、ずいぶん遅くなってしまいました(実物は巨大だった。しかも全部ダリが描いたわけではないらしい)。画家としてだけでなく、著述家、イベントプロデューサー、デザイナーといったダリの様々な顔を示し、マルチクリエイターとしてのダリ像を示すことを主眼とした展覧会です。ですから絵画作品だけではなく、自筆原稿、イベントの写真、映像、デザインした商品、オブジェなどの様々な展示品が並ぶ、少し変わったダリ展になっています。以前に裏磐梯の諸橋美術館と関わったときにダリの立体作品にはだいぶ親しみましたが、ここまであらゆるジャンルの作品が並んでいるのを見るのは初めてです。どんなジャンルでもダリは全く同じイメージを使って「ダリ世界」を展開していることがよくわかります。

これらの作品を眺めていると、自分の作り出したイメージだけでなく、自分自身のイメージ(「ダリ」というキャラクター)をも作品として扱い、さらにそのイメージを商売にするという行為自体もアートにしてしまうという戦略的な方法論があったような気がしてしまいます。「ヴィーナスの夢」というのがインスタレーション(というよりはイベントと考えるべきか)のごく初期の試みであったということも初めて知りましたが、アメリカで資本主義のシステムにどっぷりとつかりながら、現代社会におけるアートのあり方というのをいろいろと考えていたのではないでしょうか。ただ、いまの私はダリと相性が悪いのか、作品と向き合ってもどうもピンときません。昔はいろいろと面白いと感じたこともあったのですが・・・。もちろん絵が技術的に上手いことは当然で、イメージの構成も面白いのですが、どうもハッとするような面白さが感じられないのです。ダブル・イメージといえばきこえはいいですが、平たく言えば「だまし絵」の世界ですし、彼が終生抱き続けている科学技術への関心もどのように作品に結実しているのかいまいち見えにくい。晩年に強く惹かれたというカタストロフ理論についても、どこまで本気にとっていいのかよくわからないのです。

この展覧会からは、ダリが様々なメディアを駆使してマルチな才能を発揮したという点で、とても現代的なアーティストだったのだということはよくわかるのですが、彼の人間としての素顔や魅力はほとんど見えてこない。あるいはそれがダリという人が好んだ自己演出のあり方なのかもしれないのですが、だとすれば我々はまだダリの作り出した魔術の中にいるということになります。そろそろ「ダリ世界」の外から、ダリとはいったい何だったのかということを徹底的に脱魔術化してくれるような展覧会を見てみたいものです。そうすれば、私もまたダリを新鮮に感じることができるかもしれません。

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「ペトルーシュカ」を聴く (補遺)

さすがにもうおしまいにしようと思いますが、最後によく言及される録音をいくつか。

Kondrashin






Kondrashin / Royal Concertgebouw Orchestra
(1973/2/8 Amsterdam Live)

1947年版。最近の録音で言えばゲルギエフのものなどに近い、即興的な要素の強い演奏・・・ですが、演奏自体はゲルギエフより何十倍も良いと思います。とにかく味付けが濃い。コンドラシンのペトルーシュカを聴いたストラヴィンスキーは、その「間のとりかた」を賞賛したそうですが、それは何なのか?この録音がまさに答えです。不意にためたり、はずしたり、遊戯的な策略に満ちたペトルーシュカ。絶妙な「タメ」や「間」が出てくるたびに「くぅ~」という感じですが、特筆すべきは最後のペトルーシュカの幽霊のトランペットでしょう。最後にこのタメをやられると、誰でも「ブラヴォー」と叫んでしまいますよね。他にも素晴らしいところはたくさんあります。冒頭の謝肉祭はまさにしっちゃかめっちゃか、祝祭日などという気取ったものではなく大混乱のお祭り騒ぎですし、「ペトルーシュカの部屋」のコーラングレの音色の寂寥感も凄い。第4場に入ったところで音量をぐっと抑えるのも良いし、「馭者と馬丁の踊り」をここまで臆面もなくコサック・ダンス調でやってくれた演奏もありません(後半でテンポ・アップしていきます)。いやあ面白い。縦線の崩壊を含む、ライヴならではの演奏の乱れやミスは相当ありますが(ピアノも見せ場でかなりもつれている)、ここまでやってくれたら誰も文句は言わないでしょう。コンドラシン御大が得意の空手チョップで名門コンセルトヘボウをキリキリ舞いさせている光景が想像できます。この実演を見ることができた人たちは、かなり幸せですね。

Dutoit2_2




Dutoit / Orchestre Symphonique de Montreal
(1986/11 Montreal)
1911年版。デュトワ2回目の録音。冒頭から繊細で柔らかい音色でひきつけます。テンポはさほど速くもなく、リズムのキレや迫力という点からは物足りないところもありますが、アンサンブルはとても高度なテクニックでまとまっており美しい。ロシアの原色で荒々しい見世物小屋のペトルーシュカではなく、パステルカラーで洗練されたバレエとしてのペトルーシュカです。場面転換の太鼓は第1場から第2場への転換時のみ。ところどころに仕掛けがほどこしてあり(例えばムーア人とバレリーナの踊りの後半で強調されるどす黒く濁った低音の響き、「馭者と馬丁の踊り」に入る前の一瞬のタメ、その後半での弦の楽譜にはないアクセントのつけかたなど)、どれも派手ではないですが非常にセンスがいい。全体的に軽いけれど、聴いていてとても楽しい演奏です。エンディングのピツィカートにすらこういう表情がつけられるとはね。感心します。

Chailly




Chailly / Royal Concertgebouw Orchestra
(1993/10 Amsterdam)

1947年版。走らず慌てず、リズムを淀みなくしっかりと打ち出しながら、わかりやすい表情づけで進んでいく演奏。ちょっと変わっているなと思ったのは、第2場の前の太鼓連打、最初をpにしていることでしょうか(「遠くで」という1911年版からの流用ですね)。あと、大太鼓の迫力がなかなか。しかしそれ以外は極めて普通。録音も良いし、コンセルトヘボウの美しい音色も含めて完成度は高いと思いますが、面白いかと問われれば躊躇します。うまいんですけどね。

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「ペトルーシュカ」を聴く (4)

聴いているうちに思ったのですが、冒頭のフルートの旋律と、それにレスポンスするチェロの旋律は、「語り旋律」ではないでしょうか。ペテルブルクの謝肉祭の市場にひときわ高く響き渡る物売りの声、あるいは呼び込みの声を採譜したらこういう感じになるような気がするのです。何と叫んでいる声なのでしょうか?

Boulez_1






Boulez / The Cleveland Orchestra
(1991/3 Cleveland)

1911年版。ブーレーズの再録音。精密でクリアなリアリゼーションという基本的な方向性はそのままですが、録音が良くなったせいもあるのでしょう、音色がより精妙に伝わってきます。いまとなってはテンポもそれほど速くは聴こえず、むしろ全体的に落ち着いた感じ。音楽の勢いというか、迫力という点では旧録音の方が勝っていると思います。しかしながら雰囲気はこちらの方がゴージャス。単にクリアなだけではない、完成された音楽として魅力あふれる出来栄えといえるでしょう。特筆したいのは「ペトルーシュカの死」以降。色彩的で派手な部分もいいですが、このエンディングのパートをここまで丁寧に描き出しているのには圧倒されました。ブーレーズ恐るべし。

Salonen_1




Salonen / The Philharmonia
(1991/10/16 London)

1947年版。確かに技術的にも上手いし、精密だし、細かいニュアンスもあるし、文句のつけようがない・・・のだけれど、どうにもワクワクしない演奏。あまりにもクール、こんなのあったりまえとばかりに演奏しているので、全く面白くありません。どうしたものか・・・と思っていたら、第4場の舞曲に入って俄然演奏がノってきました。「農民と熊」の低弦の迫力が凄い。「ジプシー女と商人」のテンポの切り替えが超絶的。そして「馭者と馬丁」のリズムの弾み方、大太鼓のヘヴィな響きにやられました。サロネンさん、ぜひもう一度ロサンゼルス・フィルと録音してください。

Gerigiev




Gergiev / World Orchestra for Peace
(2003/5/6-9 St.Petersburg Live)

1911年版。サンクトペテルブルクでのライヴ録音です。最初から最後まで、いかにもゲルギエフ!な演奏です。まずは何かに追いかけられているように慌てふためいて走り出す、ただごとではない冒頭が極めてユニーク。そして後は、思いっきりためたり、いきなり間をとったり、粘っこく引き伸ばしたり、素早く駆け抜けたりと自由自在でやりたい放題。いろいろと面白いところ続出ですが、個人的には「農民と熊」のぐっとテンポを落としてガーガーとやる低弦が大好きです。「ロシア的で原色の演奏」と評されているようですが、私がロシアっぽいと思ったのは弦のダークな響きでしょうか。精密に計算されたブーレーズの対極にあるような、野性的で即興的な演奏です。場面転換の太鼓連打の扱いは結構自由で、第2場に入るところは長めにやり、入ってからの冒頭のところは省略。第2場最後のトランペット・ソロの前のところも省略しています。ライヴにつきものの傷は少なからずあり、中でも「子守女の踊り」の中のトランペットの大フライングには衝撃を受けます・・・しかし、こんなのいちいち指摘しても仕方ないでしょう。この演奏は、ライヴだからこそ成立しているのです。ゲルギエフはライヴが面白いと思います。

そして、こんなにたくさんの録音を聴いたにもかかわらず、私はやっぱりクラシックはライヴが一番だと信じてやみません。録音の良さと便利さを十分理解した上で言えることですが、クラシックに関しては録音は生演奏の体験を超えることはできないと思います。もともとそういう風に作られている音楽なのだから仕方がない。ああ、次の演奏会が待ち遠しい。

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「ペトルーシュカ」を聴く (3)

1911年版と1947年版のスコアをじっくりと比較すると、その大きな違いに改めて驚かされます。拍子の変更のように聴いただけではわかりにくい(しかし音楽の力学には大きな影響を与える)部分も多いのですが、楽器の変更によって響きが大きく異なる部分もかなりあります。冒頭の第1場「謝肉祭の市場」から、いくつかわかりやすい箇所をあげておきましょう。参考のため、ブーレーズ/クリーヴランド管の新盤(1991)のタイムを記しておきます。

●まず冒頭(0’00”)のフルートで奏される主題。1911年版ではフルート1本だけで奏されますが、1947年版では第2奏者が旋律を補強します。
●それにすぐに続く、アルペジオの上昇音型(0’18”)。1911年版ではハープで奏されますが、1947年版ではピアノです。ピアノは1947年版では大活躍しますが、1911年版では「ロシアの踊り」と「ペトルーシュカの部屋」以外ではあまり目立たず、後半は退場です。
●謝肉祭の群集の描写として何回も出てくる変拍子のパッセージ(1’27”)。1911年版では弦が単音でリズムを強調し管がメロディーを担当しますが、1947年版ではヴァイオリンがメロディーを弾きます。ここはとてもわかりやすい違いでしょう。このパッセージが出てくるところは他も同じです。またこのパッセージはティンパニの一撃から始まりますが、1947年版では一撃の前に3連符の装飾音符が付いています。打楽器に装飾音符を加えているのも、1947年版によく見られる特徴です。
●手回しオルガンの旋律が2回目の繰り返しに入ると、オルゴールが鳴り出します(2’48”)。1911年版ではこのオルゴールの旋律はグロッケンシュピールが担当、さらに4手のチェレスタがキラキラとした装飾を奏でますが、1947年版ではオルゴールの旋律をチェレスタが弾くだけです。
●その後、再び冒頭のフルートの旋律が帰ってくる部分(3’43”)。1911年版ではフルートの旋律にグロッケンシュピールが重ねられ、さらにヴァイオリンが16分音符でアルペジオを刻みます。1947年版ではフルートをハープが伴奏するのみ。

このような聴覚上わかりやすい違いが他の部分にもたくさんあります。しかしながら、「ペトルーシュカ」の有名な全曲録音の中に、実はこの2つの版以外の「特別な」ヴァージョンがあるのをご存知でしょうか。クラシックの演奏ではよくあるように、指揮者が楽譜にいろいろと手を入れてしまった録音が存在するのです。スヴェトラーノフの録音などもある意味ではそのひとつなのですが、あれはまだ奏法上のユニークさというレヴェルにとどまっています。もっと大胆に、譜面をいじってしまった録音があります。

Dorati




Dorati / Detroit Symphony Orchestra
(1980/6 Detroit)

「1947年版に基づく(based on 1947 version)」。なんとも気になる表記ですが、この有名な録音のどこがどう1947年版と違うのかについて書かれたものを一切目にしたことがありません。せっかくなので知りたくなって、1947年版スコアとにらめっこをしながら聴いてみました。結果発表。もっとあるかもしれませんが、とりあえず発見できたのは次の4箇所でした。このCDのタイムと、Boosey & Hawks のスコアの練習番号を使って説明します。

●第2場「ペトルーシュカの部屋」冒頭(トラック16の0’08”、練習番号94の3小節目)。打楽器はスコアの指示ではシンバルですが、同時にトライアングルが鳴っています(もしかしたらタンバリンも)。
●第4場「謝肉祭の夕方」の最初の方(トラック18の0’40”、練習番号166の直前)、ホルンの5連符のフレーズにグロッケンシュピールが重ねられています。
●「仮面をつけた人々」の最後の方(トラック18の9’33”、練習番号243から)のピッコロとフルートの旋律にグロッケンシュピールが重ねられています。
●「ムーア人とペトルーシュカの戦い」が始まってすぐ(トラック18の10’16”、練習番号252の3小節目から)めまぐるしいシロフォンが加わっています。

これらは基本的には1911年版のオーケストレーションを部分的に取り入れたものです。なぜドラティはこんなことをしたのでしょうか?1947年版を基本的に認めつつも、この部分だけは1911年版が良いと思ったのでしょうか?その理由は推測するしかありません。さて肝心の演奏ですが、冒頭のフルートやチェロの切迫したような音色と鋭い切れ味からもわかるように、全体的に速いテンポでグイグイ押していくダイナミックな演奏。ノリノリです。初期のデジタル録音だからでしょうか、ダイナミクスの幅が大きく、音の輪郭がクリアーな印象を受けます。オケがスピードについていけない瞬間も何度か訪れますが、それもノリノリの果ての自然な崩壊で、決して音楽が破綻した感じにはなっていません。見事な演奏だと思います。ただ、私がこの演奏を聴いて「アメリカっぽいな~」と感じてしまうのも事実。高度な機能美があるのですが、どことなく大味に感じてしまうのです。例えば、「子守女たちの踊り」のホルンの音色がバリバリしているのが妙に気になったりします。まあストラヴィンスキー渡米後の1947年版ですから、ある意味正しいのかもしれませんが・・・。

Abbado




Abbado / London Symphony Orchestra
(1980/9 London)

版の問題に関して、ドラティよりさらに複雑なことになっているのがこのアバド盤です。金子建志編「200CD オーケストラ こだわりの聴き方」(立風書房)の中で木幡一誠さんが書いているように、堂々と「1911年原典版」を謳っていますが、ゆめ信じるなかれ。聴こえてくる音は基本的に1947年版です。ただし、ドラティと同様に1911年版からの部分借用を中心に、かなり手を入れています。再びスコアとにらめっこをしてみました。これももっとあるかもしれませんが、気づいたところをこのCDのタイムと Boosey & Hawks のスコアの練習番号で説明してみます。たくさんあります。

●第1場「謝肉祭の市場」手回しオルガンの2コーラス目(トラック1の2’45”、練習番号26)、1911年版と同様にオルゴールの旋律がグロッケンシュピールで奏でられ、チェレスタの装飾が入ってきます(4手かどうかまでは判断できません)。
●その後で冒頭の旋律が戻ってくるところ(トラック1の3’37”、練習番号33)、ピッコロとフルートの旋律にグロッケンシュピールが重ねられています。これも1911年版から。
●魔術師が笛を吹いて人形が現れるところ(トラック1の6’35”、練習番号61)、ハープがグリッサンドで奏されるのは1911年版から。
●「ロシアの踊り」の最初の方(トラック2の00’22”、練習番号68)、シロフォンがアクセントで入るのは1911年版からの流用。
●その後のトゥッティ(トラック2の00’38”、練習番号72)。シロフォンとグロッケンシュピールが入ります。シロフォンはどちらの版にもあるのですが、ここでアバドは主旋律をなぞる音型を演奏させていて、これは全くの創意でしょう。グロッケンシュピールは1911年版の流用のようです。この録音で一番不可解な部分。アバド先生、やってくれます。
●第2場「ペトルーシュカの部屋」でトランペットで最初にペトルーシュカの主題が出た後(トラック3の1’21”、練習番号102)のアンダンティーノ。ここでは逆にシロフォンがなくなっています(1911年版にもあるのに)。聴こえないだけかとも思いましたが・・・。
●第4場「謝肉祭の夕方」の最初の方(トラック6の11’23”、練習番号165の直前)。ドラティと同じように5連符のグロッケンシュピールが加えられていますが、入る場所はドラティよりも1箇所多い。1911年版と同じ扱いです。
●「仮面をつけた人々」の冒頭(トラック11の0’00”、練習番号234)、1911年版と同様にチェレスタが入っている。
●「仮面をつけた人々」の最後の方(トラック11の0’54”、練習番号243)のピッコロとフルートの旋律の上にグロッケンシュピールが重ねられている。これはドラティと同じで、1911年版による。
●そして「ムーア人とペトルーシュカの戦い」が始まるとすぐ(トラック12の00’12”)、1911年版のシロフォンが出てくるのもドラティと同じ。

この「混合ヴァージョン(アバド版?)」をどう考えていいものか、私にはよくわかりません。ドラティの試みをさらに拡大しているような感じですね・・・この両者はともに1980年の録音でした。さて演奏はというと、リズムを強調し音楽のメリハリもある立派なものです。色彩感もたっぷり(何か編成をいじっている可能性あり)。全体的なテンポは速めで、とくに第4場の冒頭などはこんなに疾走しなくてもいいのにと思うほどです。それでもきちんとついてくるオケは凄い。ただひとつ、悪態をつくペトルーシュカの幽霊を表す最後のトランペットが、いかにも幽霊風に力が抜けているのはちょっと作為的かなと思います。ストラヴィンスキーも語っているように、この幽霊こそがペトルーシュカの実体なのです。これはロシアの小話独特のゴーゴリ的なユーモアであり、この幽霊の実在性を強く打ち出すことが本来の意図だと私は思います。ピアノはレスリー・ハワード。録音ではピアノがかなり前に出ている印象です。

Inbal




Inbal / Philharmonia Orchestra
(1989/11 London?)
1911年版。変に手を入れていない演奏を聴くとほっとします。テンポは比較的ゆったりととって、ひとつひとつの楽器の音色を楽しむように聴かせていく演奏です。フレージングに素晴らしいセンスがあり、いちいち感心してしまいます。例えば第3幕のワルツ、こんなに素敵なウィンナ・ワルツを聴かせてくれた演奏はありません。場面転換の太鼓連打は大きい音でセカセカと演奏し、とってつけた転換の感じをうまく出しています(第2場に入っていくところでフェイド・アウトするのもあまりないやり方)。第4場、冒頭のざわめきをたっぷり聞かせた後でギアチェンジして舞曲に入っていくのも新鮮でいい。「子守女の踊り」の複数のメロディーがこんなに立体的に聴こえたのも初めて。面白いのは「農民と熊」の最初、トロンボーンのスフォルツァンドに合わせて楽団員たちが「ヤァ~」とか叫んでます。そして「馭者と馬丁の踊り」、ティンパニが大迫力(p の指定全く無視)。大太鼓も凄い。これは評判になっただけあってなかなかの演奏です。ブーレーズのような精密でクリアな方向性ではなく、しっかりとした合奏力を前提とした上で、物語性を表現するためにあえてデフォルメも辞さない(しかもそのセンスは素晴らしい)というもの。レヴェル高いです。

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「ペトルーシュカ」を聴く (2)

「ペトルーシュカ」に次から次へと登場する民謡、子守唄、流行歌といった民俗音楽の要素は聴いていて楽しいものです。「ロシアの踊り」や「子守女たちの踊り」の旋律には、いますぐ歌詞をつけて歌えそうな気すらします。しかし、ストラヴィンスキー自身が「『ペトルーシュカ』の作曲において、私は民俗的な要素には全く魅せられることはなかった」と明言していることは留意しておくべきでしょう。要は、彼は「五人組」-ラヴェルのボロディンへの傾倒からもわかるように、当時のフランス楽壇ではかなり人気があった-のようにロシアの民俗音楽の要素を作風として打ち出そうとしたのではなく、あくまで「素材」としてこれらの民俗音楽の要素を扱っているに過ぎないということです。では何のためにそれらの素材を扱ったかというと、「コラージュ」-すなわち調性やリズムが互いに無関係な断片を切り貼りして重ね合わせ、音楽を構成するという作曲手法を試みるためでしょう。これは当時としても決して目新しい手法ではなかったと思います。しかし「ペトルーシュカ」におけるこのコラージュの使用は極めて効果的であり、この作品を魅力的なものにしている大きな要因となっています。このことはしばしば同時代人ピカソのコラージュ作品との共通性として語られるのですが、美術の世界でこの話を敷衍するならば、私はむしろカンディンスキーのことを連想します。初期のカンディンスキーも、ロシアの民話に題材を求めた作品を数多く制作しています。しかし彼もまた民俗的な要素に興味を持っていたわけではなく、民話の世界を描くのであればどのような色彩を使っても誰も文句を言わないだろう、という表現上の挑戦のためにそのような選択をしていたのです。ストラヴィンスキーと全く同じです。自らの没落を予感し、再生のために辺境からのエキゾチシズムを求めた20世紀初頭のヨーロッパの芸術界に対して、ロシアからやってきた芸術家たちは実に知的で戦略的な方法で自らを売り込んでいったのです。

Svetlanov




Svetlanov / The USSR Symphony Orchestra
(1970 Moscow? Live)

1911年版。これは怪演というべきでしょう。出だしは、少し遅いテンポだな、いつも通り金管と打楽器のパワー全開・・・と思うだけですが、「ロシアの踊り」が始まった瞬間に驚愕します。お、遅い。しかも重低音が効いている。3体の人形が軽やかに踊っているというよりは、3頭の熊がドスドス飛び跳ねているという感じです。おまけにスヴェトラーノフ自身が指揮台で飛び跳ねている音までしっかり入っているのだから笑えます。やたらヘヴィで異様な演奏だな~という印象は続きますが、ライヴといえども決して荒っぽいわけではなく、演奏自体は意外と細かく仕上げてあるのも面白いところです。スヴェトラーノフがよくやるオリジナルな味付けも何ヶ所かあり、例えば「ワルツ」のフルート、スタッカートのところをフラッターツンゲ(!)しています。こんな演奏、他で聴いたことありません。その後、ペトルーシュカが嫉妬するところのヴィオラと第2ヴァイオリンの刻みがスル・ポンティチェロになっているのも楽譜にはない工夫です(楽譜では単に「デタシェ」)。そして聴き物は何といっても第4場。遅いテンポで迫力のある重低音を効かせながら舞曲が進行していきますが、この「馭者と馬丁の踊り」は何でしょうか。遅い、そして重い。巨大な音の塊がスローモーションで次々と落下してきては、大地に激突して弾んでいるような感覚です。異形の演奏としか形容できません。いわゆる「スヴェトラ節」と呼ばれているものは、リヒテルが指摘しているように(「不幸にして」)、彼が師のゴロワーノフから受け継いだ側面が大きいのではないかと私は感じています。そして私はその洗練されていない感覚が実はあまり好きではないのですが、彼のある種の演奏が「面白い」ことを認めるのにやぶさかではありません。そしてこれはそんな演奏のひとつです。・・・おそらくストラヴィンスキーはこんな演奏は絶対に認めないと思いますが。

Boulez




Boulez / New York Philharmonic
(1971/5/11 NY)

1911年版。このように時代を追って聴いていくと、これはやっぱり凄いと思います。何が凄いかというと、よく言われていることですが、楽譜に書いてあることが全部きちんと鳴っているということです。もちろんこれまでの人がいい加減だったわけではないのですが、演奏の精度が確実に違います。その精密さはとくにやはり音価とリズム構造に対して極めて厳格に適用されていて、それがクールでありながらも迫力のある演奏の大きな要因になっているように思います。1911年版「謝肉祭の市場」の3/8、4/8、2/8、5/8という変拍子の部分は速いテンポでアンサンブルを合わせるのがかなり難しいらしく、ボロボロな演奏も散見しますが、ここでは見事にスッキリと合っていて気持ちが良い。全体的に速いテンポで進めているにもかかわらず、縦線の乱れがほとんどない。これは、ストラヴィンスキーを演奏する上でとても重要なことなのではないかという気がします。またこのスッキリとした演奏が、曲のコラージュ的な構成を強く浮かび上がらせるということにもつながっています。各場をつなぐ太鼓連打も楽譜の指示をきっちりと守ったもので、「遠くで」という指示の通りに小さめの音になっていたりします。欲を言えば、もっと叙情的な部分とのメリハリが欲しいかな・・・とも思いますが、何はともあれ、ブラーヴォ。

Davis




Davis / Royal Concertgebouw Orchestra
(1977/10 Amsterdam)

1947年版。この版でブーレーズのようにやってみたらどうなるか・・・という答えがこの録音であるように思います。速いテンポ、まったく乱れのない驚異的なアンサンブル、はっきりしたリズムを打ち出した演奏。もちろん1911年版よりはリズム構造は単純になっているのですが・・・。ブーレーズ/NYP盤にはなかった叙情的な聴かせどころもあり、実に達者。このオーケストラは音色も素晴らしいし、スリリングなドライヴ感、本当に上手いと思います。そして、音楽の切れ目(’)でふっと生まれる長めの間が実に効果的。デイヴィス氏は指揮しながら歌いまくっている。たぶんとっても気持ちいいんでしょう。

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「ペトルーシュカ」を聴く (1)

先日の関フィルの定期演奏会を契機に、「ペトルーシュカ」の様々な録音を聴いたので、その簡単なレヴューを。その前に少し考えておきたいのは、やはり版の問題です。よく知られているように、この曲には1911年版(いわゆるオリジナル版)と1947年版の2つの版があります。ストラヴィンスキー自身がアメリカに渡ってから行ったこの改訂作業は、音楽的というよりも経済的な理由が大きかったとしばしば指摘されます(著作権システムがまだ整備されていなかった当時、以前ロシアで出版した楽譜に基づいて演奏が行われても、亡命ロシア人だった彼の懐には一銭も入ってこなかったのです)。音楽的に見た場合、2つの版の最も大きな違いは4管編成だったものが3管編成に縮小されていることですが、これもコンサートで取り上げやすい曲にして、上演回数を増やすための工夫とも考えられます。しかし違いはそれだけではなく、ピアノの役割の重視、楽器の変更、リズムの単純化などにも及んでおり、2つのスコアは視覚上も聴覚上もかなり異なると言ってよいでしょう。ストラヴィンスキー自身も、「第1版と第2版は、地質学的に言えば2つの層のようなもので、互いに何の関係もない」と述べています。私見では、それぞれの版はその拠って立つ思想が全く異なり(1911年版はバレエという舞台芸術の一部として、そして1947年版は独立したコンサート・ピースとして編まれている)、1911年版はひとつひとつの音が舞台上の身振り=身体運動を引き出すような物語性に溢れているのに対して、1947年版はそのような余計な意味を音から削ぎ落とし、「音の運動性」そのものに力点を置いたものであるように思います。録音では1911年版をとりあげる指揮者も結構見られるものの、実演では1947年版に出会うことの方が多いようです。個人的な好みとしては、どちらかといえばオーケストラの迫力と色彩感に勝る1911年版により魅力を感じるのですが、1947年版のオーケストレーションの巧みさ(少ない楽器で最上の効果を上げる手腕)を高く評価する声もよくわかります。要は、いい演奏であればどちらでも良い・・・ということで、年代順に聴いていきましょう。

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Stravinsky / The Symphony Orchestra
(1928/6/27&28 London)
作曲者による初めての録音(初録音は1924年のグーセンス盤、未聴)。この変名オケはロンドン交響楽団のメンバーがHMV以外で録音するときに使用するものらしいです(このレコーディングはコロムビアによるもの)。1911年版ですが、SPの録音時間の限界もあり、かなりカットがあります(第1場「謝肉祭の市場」のいろいろ、第3場後半のムーア人と踊り子のくだり、第4場の「農民と熊」「ジプシー女と商人」、それに各場のつなぎとなる太鼓連打)。最後もバレエとは違ういわゆる「コンサート・エンディング」(これは1911年版にも付されている)となっていて、組曲版にも似た「短縮ヴァージョン」の演奏です。予想通りの針音に包まれた古めかしい録音のため、この曲の命である色彩感が感じにくかったり、ソロ楽器の音がオフ気味だったりするのは致し方なく、またアンサンブルにも乱れがあったりします。しかしながら強い推進力は感じられますし、時々「こんな音あったんだ」と思ったりするのは、作曲者ならではの録音と言えるかもしれません。

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Markevitch / Philharmonia Orchestra
(1954/4 London)

組曲版(1911年版による)。まあそれなり・・・という音質ですが、このコンビの名盤として知られる「春の祭典」同様に、躍動感溢れる鋭い切れ味のリズムが特徴です。アンサンブルは一糸乱れぬ、とはいかずミスもありますが、第3曲の舞曲の連なりがうねるように盛り上がっていくところなどは凄い。全曲盤を残してくれていたら・・・。

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Monteux / Paris Concervatoire Orchestra
(1957 Paris)

1911年版。初演者モントゥーの録音、ピアノはジュリアス・カッチェン。1957年の録音ながら、1911年版ならではの色彩感が見事に表出されています。フレージングや音色が実にニュアンスに富んでいて繊細、さらに迫力も十分。おおむね中庸なテンポで進行していきますが、音楽の流れは緩急自在(「馭者と馬丁の踊り」でぐっとテンポを落とすところが好き)。ただしアンサンブルにはちょっと危ない箇所もあります(しばしば縦線が崩壊する)。場のつなぎの太鼓連打はすべて省略(1911年版のスコアには「コンサートでは省略可」とある)。またスコアの指定通りコルネットを使用しており、「バレリーナの踊り」などで聴ける柔らかく歌心のあるソロには、ストラヴィンスキーの求めていたものはこれだったのだな、と納得がいきます(ここも縦線が完全に崩壊してるけど・・・)。

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Monteux / Boston Symphony Orchestra
(1959/1/25,26&28 Boston)

1911年版。ピアノはバーナード・ジゲラ。57年のパリ音楽院管の録音と解釈の方向性は全く同じであると思いますが(太鼓連打がないのも一緒)、こちらの方が録音がやや鮮明で、オケの勢いがよい演奏です(やっぱり縦線は時々崩壊するけれど・・・)。ただ、各楽器の音色のコクはパリ音楽院の方が圧倒的にあるように思います。お好きな方を・・・。

Stravinsky




Stravinsky / Columbia Symphony Orchestra
(1960/2/12-17 Hollywood)

1947年版(ブックレットには「1911年原典版」とありますが、どこを聴いてもまったくの1947年版です)。とにかくテンポが速く、音符がスタッカート気味に奏されてリズムのキレが強調されている演奏。こんなに速い「ムーア人の部屋」はびっくり。あまりに速すぎてオケが全くついていけず崩壊しているところも多々ありますが、作曲者が何をやりたいのかという思いは強く伝わってきます。そして、ここにこそ1947年版の真意があるように感じられるのです。すなわち、音の運動性の追求。楽譜に書かれているひとつひとつの音が粒立って聴こえてくるこの演奏には、単に作曲者の自作自演という意義以上のものがあると思います。しかし、魔術師登場前の太鼓連打が半分になっているのはどうしてでしょうか?

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