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藤田嗣治「腕一本/巴里の横顔」

腕(ブラ)一本・巴里の横顔―藤田嗣治エッセイ選

あの回顧展から、もう1年が過ぎようとしているのですね。早いものです。「巴里の横顔」「腕(ブラ)一本」「地を泳ぐ」という入手困難な随筆集からの抜粋が、文庫にまとめられているのを知りました。現在いろいろなところで目にする藤田の言葉は、ほとんどがこれらの随筆集からの引用です。改めて読み直すと、編者の近藤さんも書いておられますが、明治生まれの気骨ある日本人という印象を強く持ちます。そして、どのように自己を演出するかということに相当気を配っていることも(加えて、日本では誤解されやすかったであろうことも)。彼のエッセーからは、日本人が世界で活躍するとはどういうことなのかということをいまだに考えされられます。また、線の重要性、デッサンの必要性などを語った画論も、藤田の絵を知る者にはとても興味深い内容です。

しかしやはり最も注目されるのは、ここで初めて公開された晩年のノートでしょう。自伝の草稿とともに残された、最晩年の寂寥感あふれる独白の数々を読むとき、彼が随筆の中では決して見せなかった素の表情をふと垣間見てしまったような気分になります。

 日本に生まれて祖国に愛されず、
 又フランスに帰化してもフランス人としても待遇も受けず、
 共産党のように擁護もなく、
 迷路の中に一生を終る薄命画家だった。
 お寺を作るのは私の命の生根の試しをやって見るつもりだ。
 (1966年4月18日)

晩年、パリ郊外の村で隠遁生活を送っていた藤田は、家で浪花節のレコードを繰り返し聴いていたといいます。彼にとっての日本とはいったい何だったのか。藤田の作品や言葉と向き合うとき、私はいつも頭の中でこの問いを考え続けるのです。

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齊藤/関フィルのペトルーシュカ

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関西フィルハーモニー管弦楽団 第191回定期演奏会
2006年3月28日(水) ザ・シンフォニーホール

プロコフィエフ:組曲「キージェ中尉」作品60
グレッグソン:サクソフォン協奏曲
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)

指揮:齊藤一郎
サクソフォン:須川展也
ピアノ:三輪郁
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団
コンサート・マスター:川島秀夫

大阪にやってきて半年。在阪オケ体験シリーズ(と勝手に名づけました)はセンチュリー、大フィルときて、今回は関フィルです。キージェもペトルーシュカもナマはおそらく初めて。ペトルーシュカに関して言えば、昨年8月のゲルギエフ/PMFのチケットをとっていながら、転勤のバタバタのために聴きに行けなかったことがいまだに悔やまれます(あれは1911年版だったのだろうか・・・だとしたらますます悔やまれる・・・)。颯爽と登場した齊藤氏は長身のイケメン指揮者。遠くてよく見えませんでしたが、燕尾服の中におそらく金の刺繍が施されたベストを着ていました(派手)。弦は14・12・10・8・7、これはすべての曲で変わらず。

まずはキージェ。全体的にあまり思い入れなく、すいすいと進む演奏。大好きな「ロマンス」のコントラバス・ソロは・・・最初は良かったのですが、う~ん・・・。この曲はもっと弦セクションに深みと繊細さがほしいと感じました。サックスは予想通り須川氏が担当、素晴らしいソロの連続で魅せます。「トロイカ」はかなり急速でスリリングな演奏。そして「埋葬」の後半、プロコフィエフ独特のポリトーナルな響きはナマで聴くと面白さ倍増。ただ、全体的にオケのアンサンブルがやや散漫に聴こえました。大丈夫でしょうか?

グレッグソンのサックス・コンチェルトは「関西初演」とのこと(それがどうした、という感じでもありますが)。ドラム・セットを加えた編成です。冒頭、いきなりサックス・ソロがバンダで吹き始めるのは、意外性を狙った作曲上の演出。須川氏は音色が上品でヴィブラートも美しい。曲は極めて調性的で、ビッグ・バンド・ジャズ+映画音楽という感じ。第1楽章ではクラリネット奏者2人がまさにビッグ・バンドよろしく立ち上がってスイングします。オーケストラは意識的にいろんな音響を使っていますが、実験的というわけではありません。第2楽章はソプラノ持替。美しい響きもありつつ、やはり映画音楽的な印象。マイルスっぽいミュート・トランペットも出てきました。この静かな楽章の途中、前の席の人が大きな音で鼻をかんでいたのには閉口。そして第3楽章では再びアルトに持ち替えてリズミックに迫る。「キメ」のフレーズの連発、やや激しいブロウの箇所もありましたが・・・まあ、それだけの曲です。オケ・ソリストとも熱演でしたが、現代の音楽作品としては高く評価できません。ポピュラーなテイストなので聴きやすく、その一方で「現代音楽を聴いた」という満足感を与えるようなちょっと気の利いた響きもある、という程度のものでしょう。新鮮な驚きは何もありません。須川氏によるアンコールは、アルト・ソロでスコットランド民謡「美しいデューン川のほとりにて」。静かに吹き始めたとき、バックステージかロビーからなにやらノイズが聞こえてきましたが・・・あの音はいったい何だったのでしょうか?何だか落ち着かない。

そしてペトルーシュカ。これも全体的に速めのテンポで、すいすいと進む演奏です。「謝肉祭の市場」のコラージュ的な手法、そのバラバラ感はナマで聴いた方が圧倒的にわかりやすい。ただ、ピアノが舞台下手(しもて)に配置されていて、音が中央から立ち上がってこないのにはやや違和感を感じました。もともと「コンツェルトシュトゥック」として作られた曲だし、1947年版はピアノの役割が大きいのですから、指揮者正面に配置した方がよいのではないでしょうか?齊藤氏は結構いろいろと細かな工夫を凝らしているようで、例えば場面転換の役割を果たす小太鼓とティンパニの連打が、第2場「ペトルーシュカの部屋」の直前だけ遅いテンポで奏されるのは面白い効果でした(つぎの「人形が投げ込まれる」急速な音型とのメリハリがつく)。第4場の様々なダンスの饗宴も速いテンポで次々展開して楽しめましたが、「農民と熊」だけはやっぱりぐっとテンポを落とした方が私の好み。最後の拍手が余韻を楽しむにはちょっとフライングだったのは残念でした。全体的に見ると、ソリストはいずれも好演。最も重要なトランペットは時々微妙なミスもありましたが、音色・フレージングともに達者で素晴らしいと思いました。魔術師のフルート・ソロも本当に上手でしたし、女性パーカッション奏者の大活躍も素敵でした。そして不思議な発見がひとつ。最後の方で気がついたのですが、コントラバス奏者のひとりが弓を持たずに(他の人が弓で弾いているときも)ずっとピツィカートで弾き続けていたのです。これ、どういうことだったのでしょうか?

関フィルの印象。管打セクションはミスもするけれど総じて安定感があり、優秀。弦セクションはトップのソロなど頑張っていると思うのですが、アンサンブルとしてはパワーがなく、音色も深みに欠けている。今日の演奏だけかもしれませんが、ちょっと気になりました。またお気に入りのプロのときに聴いて、確かめてみようと思います。

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パウル・クレー 絵画のたくらみ

パウル・クレー 絵画のたくらみ

クレーについて何かを語ろうとするのはとても難しい、と感じています。生涯をたどってみたところで、彼の作品について何がわかるわけでもない。作品の中に入りこんでいっても、まったく過不足のない完璧に美しい世界が広がっているため、あらゆるコメントはすべて蛇足に思えてしまう。画面やタイトルの謎めいた言葉や記号の秘密に迫ろうとしても、それが彼のアートの本質に一向に届かないもどかしさを感じてしまいます。あらゆる意味づけからするりと抜け出てしまう作品の数々は、やはり音楽との共通性を感じさせるのですが、それでも見る人に何かを語らせずにはいられないある力が備わっているように思います。そして、語るのが難しいと感じているだけに、近年のクレーの安易な語られ方-「忘れっぽい天使」をその象徴とするような-には強い違和感を覚えてしまうのです。印象派の次に位置する「良い趣味」のアーティストとしてクレーを消費してしまって良いものでしょうか。この本には、そんな私の問題意識と重なるところがありました。

架空の質問者の問いに、前田富士男さんと宮下誠さんが答えていく形式はとても読みやすいものですが、その内容はこれまでのクレー論とはちょっと違った視点に満ち溢れています。クレーをクレーにしたのはチュニジア旅行ではなく、ベルン郊外オスタームンディゲンの石切場だ。作品にはいくつものトラップが仕掛けられており、画面の「意味」ではなくその生成と崩壊の「過程」をこそ示している。公開する日記やノートには自己演出を欠かさないなかなかの策士である・・・。クレーの作品が、間口は広いけれども実に奥行きの深い、そしてありきたりの読解など通用しない「たくらみ」に満ちた迷宮であることを次々と指摘していきます。私はクレーの作品を実際に見たとき、実によく考えられた画材や支持体の選択にいつも魅了されてしまうのですが、この本でもその点がいくつかとりあげられており、興味深く読みました(新聞紙の使用や、布のほつれや石膏が意味すること)。戦略的に多義性を装うクレーの作品の本質に、新鮮な視点からしっかりと迫っていこうとする意図が強く感じられます。

本の最後にはクレーを訪ねる旅ガイド。確かにパウル・クレー・センターができたのだから、スイス各地にクレーを訪ねる旅というのも悪くないかもしれません。いつのことになるのやら、まったくわかりませんが・・・。

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パリ、ジュテーム

Paris「パリの街における出会い」をテーマに、世界中の映画監督が撮影した5分間のショート・フィルムを18本集めたオムニバス。こういうタイプの作品で近年良かったのは「10ミニッツ・オールダー」(「人生のメビウス」「イデアの森」どちらも)でした。この「パリ・ジュテーム」は、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちによる「パリところどころ」(1965)の現代版。18本の作品の中には過去の様々な作品へのリファレンスやオマージュがいろいろと組み込まれていて、映画ファンのマニア心をくすぐる仕掛けとなっています。昨年のカンヌ映画祭「ある視点」部門のオープニングを飾った作品なのですが、なるほど、それにふさわしい作りだと思います。

私は決して映画マニアではないので、そのような「ほのめかし」を十分に楽しめるようなタイプの観客ではないのが残念なところです。しかし豪華なラインナップ(監督も俳優も)と、「恋人たちの街」パリのあちこちを舞台に繰り広げられるショート・ラヴ・ストーリーというコンセプトはとても魅力的だと思います。また、ひとつひとつの作品は演出のテイストも撮影の手法もかなり異なっているので、その取り合わせの妙という楽しみもあります。私が気に入ったのはコーエン兄弟の「チュイルリー」(観光名所なのに舞台は地下鉄の駅の中というひねくれたアイディアが最高)、アルフォンソ・キュアロンの「モンソー公園」(ワンカット長回しと意外性のあるプロットに脱帽)、アレクサンダー・ペインの「14区」(素晴らしいペーソス、ラストの作品はこれ以外に考えられない)といったところでしょうか。日本代表の諏訪敦彦「ヴィクトワール広場」も秀逸な出来です(ジュリエット・ビノシュとウィレム・デフォー!)。18作品を通して観て思ったのは、多くの作品で「外国人が見たパリ」という視点が強く打ち出されているということ。もちろんフランス出身の監督もいるのですが、外国人がパリという街をどのように見るか/経験するかという視点がまるで裏のテーマとして流れているように感じました。グリンダ・チャーダ「セーヌ河岸」のイスラム系女学生、ウォルター・サレス「16区から遠く離れて」における移民のベビーシッター、オリヴァー・シュミッツ「お祭り広場」のアフリカ系男女・・・。この視点こそが、実にリアルな「今のパリ」を描き出す上で重要な役割を果たしていたように思います。また直接的に外国人が登場しなくても、外国人監督ならではのパリ(とそこに住む人々)への強いオマージュが感じられた作品もありました。イザベル・コイシェの「バスティーユ」や諏訪作品がこれに当たるでしょう。「外国人が見たパリ」という視点は、このオムニバスが単に「パリところどころ」の焼き直しで終わらないための、非常に大切なポイントであったように思います。

「パリ」と「出会い」という内容上の縛りがあるため、それぞれの作品は「10ミニッツ・オールダー」ほど個性が際立つものとはならず、また内容も深くはなく、読後感が淡いのは致し方ないところでしょう。そこまでの強い作品ではない。むしろ、それが「パリ」という街を描いたときの独特の「感じ」なのかなと思います。だからやっぱりこのアンソロジーは、パリとフランス映画を愛する人たちに捧げられた贅沢な贈り物なのでしょう。そして日本人としては、ぜひこの企画で「東京、愛してる」が観たいと思います。誰が、どんな東京を撮ってくれるのでしょうか?

フランス・ドイツ合作、2006年。

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将軍家への献上 鍋島

Photo_115年ほど前まではやきものの知識など全く持っていなかったのですが、ある仕事をきっかけにこの世界に足を踏み入れてしまいました。あのときは、有田の14代酒井田柿右衛門さん、唐津の13代中里太郎右衛門さん(いまの中里逢庵さん)、美山の15代沈寿官さんを次々と訪ねて話をきいたりしたのですから、今考えても信じられないほど贅沢な体験だったと思います(今泉今右衛門さんはちょうど先代が亡くなられて間もない頃だったのでお会いできなかった・・・残念)。とくに有田には何度も足を運んでいろいろと取材したので、磁器に関しては相当詳しくなりました。ただ、そのときは鍋島の凄さを本当には理解していなかったように思います。大阪市立東洋陶磁美術館で開かれているこの空前絶後の展示を見ると、鍋島は作られた時点においてすでに器というよりも美術品であったことがよくわかります。

多数の重要文化財を含む、およそ230点の鍋島が展示された展覧会。これだけの鍋島が集まることは、おそらくもうないのではないかと思います。「鍋島といえばこれ!」という代表作もすべて網羅。そして特筆すべきは、展示が学術的によく練られた素晴らしいものであることです。これまで窯の作風の変遷としてのみ語られがちだったことを、鍋島藩と将軍家との関係の中で捉えなおすという実に説得力のある試みがなされています(佐賀県立九州陶磁文化館館長の大橋康二さんによる素晴らしい仕事)。関ヶ原の戦いで西軍についた鍋島家が、徳川将軍家との関係を修復するために中国の輸入磁器を献上していたが、明清の王朝交代による混乱で輸入が止まったため、自前で中国の高級磁器に近いものを作って献上するようになる。試作期から技術の確立を経て、将軍権力強化に対応した精巧無比な色鍋島の傑作を作り出すようになるが、8代将軍吉宗の倹約令によって染付と青磁のみ(ときに部分的な赤の使用が許される)となり、やがて往時の輝きを失って衰退していくという流れが、実例によってとてもわかりやすく示されています。「陶工を山奥に隔離して献上品を作らせた」というイメージが強い鍋島が、実は有田の民窯の優秀な陶工たちを集めて(しかも優れた人材を次々ヘッドハンティングしながら)作られていたもので、民窯の優れた技術やデザインをどんどん取り入れていたことも指摘されており、なかなか新鮮でした。

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展示されている鍋島には色々なタイプがありますが、私はやはり盛期の色鍋島、その完成度の高さに目を奪われてしまいます。とても有名なものなので改めて取り上げるのも気がひけるのですが、色絵桃文大皿(上左)はやっぱり凄い。ぼかしのダミの上に微細な赤を点描することで桃の肌を表現する、この超絶技巧を肉眼で見ると開いた口がふさがりません。蔦の赤が呉須の青と混ざらないように細い蔦の線を墨弾きで抜いてある岩絵蔦文小皿も(上右)その神経の細やかさに驚くばかりだし、もちろん色絵組紐文皿(下左)や色絵三瓢文皿(下右)洗練されたデザイン感覚は改めて実物を見て感じ入りました(展示の中で技術的なポイントを解説しているのもわかりやすくてよかった)。  実物を見ての勝手な印象ですが、色鍋島は有田の民窯よりもかなり「肌の白さ」を追求しているように思いました。もちろんこれは柿右衛門の濁手などとは全く別のものなのですが、陶石の選別と透明釉の質にかなりこだわっているのではないでしょうか。

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また面白いと思ったのは、染付も巧みにダミの濃淡を使い分けて描いていることで、これはまさに水墨画の技法です。染付岩瀧文大皿(下左)などはその好例(岩が「狩野派」なのが面白い)。非常食として梅干を重視した吉宗の政策に沿って、肥前名産の梅干を入れて献上されたというなんと七升の染付松竹梅文大壺(下中央)なんていうのも笑ってしまいました。そして染付大川内藩窯図大皿(下右)、藩窯廃止間近にその様子を描き残したのではないかというこの皿にはやはり深い感動を覚えます。考えてみれば、ひたすら皿を見て感銘を受けるなどということはそうないのではないでしょうか。やはり鍋島はただの器ではありません。これは工芸でありながら絵画にとても接近した、特別な美術品なのです。

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残念なのは東洋陶磁美術館での開催は25日までであるということ。このあとは福島に巡回し、東京での開催はないようです(MOAでやったからいいってこと?)。「絵は好きだけどやきものはわからん」という人も、だまされたと思って福島に行ってみる事をおすすめします。これは、ホントに凄いです。そして開眼したら有田へ行きましょう。

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The Beatles Gregorian Songbook

The Beatles Gregorian Songbook: The Liverpool Manuscript

「近年、リヴァプールから30マイルほど離れた修道院で、驚くべき中世の手稿譜が発見された。その内容を分析した音楽学者によると、なんと記されていた音楽はあのビートルズの曲と酷似しているという。作曲者とされているのは、ジョン神父、ポール神父、ジョージ修道士という3人の僧たち。手稿譜の存在はこれまで全く秘密にされていたため、ビートルズがこれらの曲を知っていた可能性はない。音楽学者たちは現在もこの謎を探求している・・・」

 昨年の後半には出まわっていたCDらしいのですが、私が知ったのは最近。要はグレゴリオ聖歌のスタイルによるビートルズ・カヴァーです(Martin Dagenais 指揮の The Schola Musica による)。カヴァー・アルバムというものにほとんど興味を持てない性質なのですが(オリジナルの方が100倍ぐらい優れているという例が多すぎる)、ビートルズものだけはちょっと別。3歳ぐらいから赤盤と青盤を耳タコになるぐらい聴かされて育った(実話です)私にとって、ビートルズの音楽は空気のようなもの。誰がどんな料理の仕方をしても楽しめてしまいます。そして言い古されたことではありますが、彼らの音楽は本当に素晴らしい素材なのです。

 鐘の音で始まるのはあのソレム修道会の名盤のパロディでしょうか。グレゴリオ聖歌のイメージそのままに、まるで修道院の中で歌っているような深い残響の男声合唱。時折メリスマティックな装飾が入る以外は、原曲のメロディーをそのまんま歌っているだけなのですが、雰囲気があまりにそれっぽいので、ちょっと聴いただけではビートルズの曲だとはわからないほどです。そして原盤ライナーが凄い。上にもそのテイストをちょっと意訳しましたが、かなり凝ったパロディーが展開されています。曰く、ジョージ修道士は東洋思想に大きな影響を受けていたが、やがて仏教の教えに惹かれて修道院を離れカシミールに行ってしまった。曰く、3人はリチャードという忠実な家来(!)を従えて世俗の吟遊詩人としても活動することがあり、ロンリー・ハート・ミンストレルズと名乗っていた・・・。このバカバカしさに脱帽です。1曲1曲にも詳細な「解説」がついていて、これも抱腹絶倒の面白さ(こういうパロディの常として、ビートルズの曲を知っていれば知っているほど面白い)。もちろん音楽的な完成度も高く、中でも「インド風」の曲は東洋的な旋律がとても妖しい響きとなり魅力的です(異教にかぶれたジョージ修道士らしい)。またアルバムの最後には「Let It Be」に続いて「The End」が入っているのですが、「1ページだけが残っているので、この作品がもっと長い曲の一部分なのかどうかはわからない」そうです。

 PDFファイルで全曲の楽譜つき。これは普通の五線譜なのですが、もしネウマ譜にしてしまったらやっぱりやりすぎかしらん?

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大エルミタージュ美術館展

Photo_9 2年ほど前にも別の内容で「エルミタージュ美術館展」が開催されていたので、とてもデジャ・ヴを感じるのですが、ともかく全国を巡回中。東京展、名古屋展に続いて京都展ということで、京都市美術館へ行ってきました。「都市と自然と人々」という、おそらくどんな作品でも語れるようなテーマで80点の作品が展示されていますが、半数以上は一般にはほとんど知られていない画家たちのもの。多くの人が目当てにしているモネやルノワール、ゴーギャンといったモダン・アートの作品はほんの一部で、それらは革命後にイワン・モロゾフやセルゲイ・シチューキンといったコレクターの蒐集品からもたらされたものです。これが意味していることは、革命前のエルミタージュ美術館のコレクションの基準というのはやっぱりフランスのサロンだったということ。これは、実際にエルミタージュ美術館に行っても感じることです(広大な建物、膨大な作品数にクラクラ)。ということで、これらアカデミー的な作品をじっくりと見ながらいろいろ考えるのが、この展覧会を楽しむコツです。

Photo_10 例えば、エリンハの「オランダの室内」という作品はとても素晴らしい絵だと思うのですが、それはこの絵があの独特の「オランダの光」をとても印象的に描いているからです。高い窓から差し込んでくる透明な光とその柔らかな反射によって満たされる室内は、フェルメールを思い起こさずにはいられない静謐さを湛えています。画題としては「貞潔」なのでしょうが、それよりもこの画家の光に対する感受性に魅せられます。また個人的にヴェドゥータが大好きなので(ヴェネツィアが好きというのもありますが…ヴェネツィアの風景画を見るたびに「どの場所から見た景色か?」を考えてしまう)、カナレットやベロットの作品は楽しめました。ベロットの「ゼーガッセから見たドレスデンの旧市街」はとても印象的な絵で、とくに群集の描写は驚くべきものです。そしてグランジャンの「エトワール広場から見たシャンゼリゼ風景」。凱旋門からコンコルド広場の方向を見渡す構図はパリを訪れたことのある者にはおなじみの風景で、こちらへ向かって突進してくる馬車のスピード感あふれる迫力ある描写が面白い。近代都市としてのパリというのは印象派が好んだテーマなのですが、アカデミズムの手法でもこのように作例があることを改めて知りました。

ゴーギャンについては以前かなり詳しく調べたことがあるので、どの作品を見ても興味深く思えます。今回出ている「エウ・ハエレ・イア・オエ」は最初のタヒチ滞在時末期の作品で、おそらくパリで売ることを考えて描いたもの。ゴーギャンお得意の「楽園のイヴ」の主題ですが、背後の女性たちのポーズは過去の作品にも見られたもののコラージュになっています。下記の「ナフェア・ファー・イポイポ」(中央:オルセー美術館)、「イア・オラナ・マリア」(右:メトロポリタン美術館、右端の子供と女性に注目)をご参照ください。これらのポーズは、タヒチに持っていった写真資料をもとに描いたものです。また実物を見てわかったことですが、ア ルル以来の手法のひとつとして目の荒いジュートのキャンバスを使っており、それがこのトロピカルな作品に強い野性味を与えているように思います。01Hggn5_5Hggn8_4









「大エルミタージュ美術館展」という派手な名前から想像されるものよりは、内容的にはかなり地味な展覧会であるような気がしますが、満場の来館者は結構楽しんでいるようでした。いいことです。それにしてもすごい人。もっとゆっくり細かく見たい・・・。

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善き人のためのソナタ

971d45dab85d8b9963395e9023164c92私はソ連時代末期のモスクワで3年ほど過ごしたことがある。その頃も外国人のアパートには盗聴器が仕掛けられているというのがもっぱらの噂だった(おそらくそれは真実だっただろう。もっとも同時に、そんな盗聴を真面目に行うような労働意欲を持つ人間が当時のソ連にはいないことは誰もがわかっていた)。また電話の通話中には実際に盗聴されているのではないか?と思わせる変なノイズや混信が多かったし(もちろん家庭からダイレクトに国際電話をかけることもできなかった)、外国からの郵便物の多くに開封・検閲のあとがみられた。だから、この映画の舞台となっている1984年の東ベルリン(まさに同じ時に私はモスクワにいた)の状況をとてもリアルに感じることができる・・・当時の「東」の街に共通しているあの殺風景な都市空間の佇まいと、そこに流れる静かで乾いた空気も。しかし、市民間の相互監視に関する限り、東ドイツの状況はソ連の比ではなかった。私はそれを、壁の崩壊後に次第に明らかになっていったシュタージの活動の実態を伝えるいくつかの報道で知った。冷戦の最前線の戦場であるが故に、雪解け後も東欧諸国の中で最も厳しい国家保安体制が敷かれていたのが東ドイツだ。隣人同士が、友人同士が、夫婦が、親と子が監視しあい、密告を行うような社会。この記憶は、当時を生きた人々の心の中に鋭い痛みとして今も残っているはず。それをいま映画にできるというのが、まずすごいことだ。

原題は「Das Leben der Anderen」。他者たちの生活、ということだ。「善き人のためのソナタ」という邦題には当然賛否両論があることとは思うが(「ソナタ」は重要ではあるが、物語の中心ではない)、日本での一般的なアピールを考えた上での担当者の結論と考えれば、私は全く了解できる。それに、日本語のタイトルは決して作品の中身には影響しない。先にも書いたが、当時の東ベルリンの都市空間の表現が実にリアルだ。やや青みがかった映像が、画一的で殺風景な町並み、没個性的で垢抜けないインテリアといった当時の「東側」の空気を如実に伝える(流行の「オスタルギー」でこれらのデザインがファッショナブルなものとしてとりあげられるのを見るたびに、私はとても不思議な気持ちがする)。主人公ヴィースラーがあまりに職人的であり、社会主義国家体制の保安に対する自らの信念が固いものであるが故に、腐敗した官僚組織が牛耳る国の実態に対して距離感を抱くようになるという設定が面白い。寡黙で無表情な彼の内面を、その大きな瞳を見つめることで推し量ろうとするのは難しい・・・しかし彼の内面は確実に変化していくのだ。その変化の証は、瞳から流れ出る一筋の涙によって端的に示される。彼がドレイマンとクリスタに対してシンパシーを感じるようになる過程の描写に説得力が欠けているだろうか?あるいはそうかもしれない。これまでまるで芸術というものに全く興味を持たなかったヴィースラーが、ブレヒトの詩を読み、「善き人のためのソナタ」を聴くことで初めて人間性に目覚める。これは完全にフィクションであり、奇跡だ。しかし、その直接的な鍵を音楽という体験に与えたところに熟考の跡を感じる。私の経験から言っても、「東」では「芸術」というものに西欧では考えられないような重みが与えられていた。だから、こういうこともありえる、と思えてしまうのだ。そして、尋問にかけられてドレイマンを裏切ってしまうクリスタを人々は責められるのだろうか?あの社会の中では、まともな人間はドラッグのようなものに頼らないと生きていけないだろう(当時のソ連ではアルコールに頼って人生を送っている人が圧倒的に多かった)。このクライマックスのエピソードは、あの社会の中で人間として生きるということがいかに難しかったかを物語っている。しかし映画は、そんな状況の中でも人間性を失わなかった人々がいたことを静かに、しかし強く希望をもって訴えかけるのだ。

素晴らしい映画だと思う。これが33歳の人の初監督作品というのだから驚いてしまう。先にも書いたように、シュタージのもとでの相互監視という歴史的な事実は、今も人々の記憶に生々しく残る棘だ(実際に、「東」出身であるヴィースラー役のウルリッヒ・ミューエは、十数年間も妻に密告され続けていたことを数年前に知ったという)。普通なら目を背けてしまいたくなることを、フィクションの形をとりながらも克明に描き出す、しかも希望をもって。こんなことは、なかなかできるものではない。振り返って、自分はどうだろうか?見る人ひとりひとりが問われているのではないか。ましてや、この映画に対して、「特殊な状況下の話で、実感するのは難しい」というような感想では済まないのは明白ではないだろうか?

音楽も素晴らしいと思っていたら、エンド・クレジットでガブリエル・ヤレド(&ステファン・ムッシャ)であることを知って納得。私にとってのヤレドといえばやっぱり「勝手に逃げろ/人生」、「愛人~ラ・マン」、「ベティ・ブルー/愛と激情の日々」。そして今回もやっぱり映像を見ないで書いたらしい。弦楽合奏を主体とした静かな哀しみを湛える旋律が素晴らしい。そして鍵となる「善き人のためのソナタ」(映画ではペータースの楽譜で出てくるけれど、さすがに作曲者名は書いていない)は、短いけれどこれ以上はないという出来栄え(これ、ヤレドの「クラシック作品」と考えても良いのだろうか)。物語上こんな重要な位置付けを与えられている音楽を作曲するというのは本当に困難なことだと思うのだが、それを完璧に成し遂げていることに驚愕する。ところで、映画を見てすぐにサントラも買ってしまったのだが、「日本特別編集版」はボーナス・トラックとしてヤレドと監督の選曲によるクラシックの「ソナタ」-スカルラッティのニ短調L.413、ベートーヴェンの「熱情」第2楽章、モーツァルトのイ長調K.331の第2楽章と第3楽章-が最後に入っている。演奏者の記載は全くなし。買ってからそれに気づいたときは一瞬余計なものを・・・と思ったのだが、聴いてみると意外と悪くない。それまでの音楽の流れを壊さない選曲だし、演奏も抑制されていながらほどよくロマンティック。しかも最後のトルコマーチはオケ編曲版という衝撃のエンディングで、これはもしかしたらかなり面白い「特別編集版」かもしれない。

フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督、ドイツ、2006年。

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大阪コレクションズ

サントリーミュージアム天保山、国立国際美術館、そして大阪市立近代美術館建設準備室が、それぞれのコレクションを持ち寄った3つの展覧会を大阪市内で共同開催中。そのうちの2つに行ってきました。

Photo_2「夢の美術館 大阪コレクションズ」

国立国際美術館

この展覧会は、モネやセザンヌあたりからアンゼルム・キーファーまで、モダン~コンテンポラリー・アートの範疇に属する作品を集めたもの。へえ、こんなの持ってたの・・・という作品がいろいろ見られる、というのがこの展覧会のポイントでしょうか。あっ、ボッチョーニ「街路の力」がある、なぜジョゼフ・コーネルにこんなにこだわるのか、ふうん、ロスコやデ・クーニングも押さえてるんだ、おお、リヒターもあるぞ・・・という感じ。展覧会の性格上しかたがないとは思いますが、まるで美術史の教科書を読んでいるような超オーソドックス無難な展示方法は、まあ、あまり面白くはありません。作品がペインティングか彫刻(オブジェ)のみ、というのも楽しくない。もうちょっとすいていて、ぼ~っと考え事でもしながら回ることができればうれしかったかな。万博記念公園から中之島に引っ越してきた国立国際美術館はシーザ・ペーリーの建築で、てっぺんから降りていく感じの空間設計(なんとなくポーラ美術館を連想しました)。エントランス広場は気持ちよいです。

Photo_3 「佐伯祐三とパリの夢 大阪コレクションズ」

大阪市立近代美術館心斎橋展示室

世紀末から1920年代までのパリで活躍した画家たちの作品と、大阪出身の佐伯祐三の作品という2つの展示からなる展覧会。前半はよくありそうな感じの展示ですが、会場が国立国際美術館よりはるかに小さくてすいているので、とても落ち着いて見ることができます。こういう環境だと、モネの「ディエップの崖にて」も改めてじっくり見てみようかなという気になるのです(そしてその光の表現の美しさに改めて視覚的愉悦を感じる)。ただ、多くの作品がガラスケースに入ってしまっているのが非常に残念でした・・・。後半はちょっとした佐伯の個展。「自画像」など極めて重要な作品を含む見ごたえのある展示です。でもこの人の作品に充満する孤独と自意識にしっかりと向き合うのは、なかなか精神的に疲れるのですね、私は・・・。こう作品を並べてみると、30歳での客死はさぞ無念だったであろうと改めて思います。

もうひとつの共同開催館、サントリーミュージアムではモダン・デザインの展示を行うので(5月17日~7月1日)、こちらもいずれ行ってみようと思います。

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パフューム ある人殺しの物語

Perfume_1 大ベストセラー小説を原作とした映画のようですが、恥ずかしながら未読。ということで、映画作品としてのレヴューです。以下ネタバレ注意。

私も映像の仕事をしているので、匂いとか味が映像では直接的に伝えられないということの意味はとてもよくわかります。だからテレビではリポーターが代わりに体験して感想を言ったりするのですが、あまりスマートな表現方法ではない(わかりやすいけど、美しくない)というのが個人的な意見です。この映画ではリアルな映像の力だけで匂いという感覚を伝えようとしており、これはとてもまっとうなやり方だと感じました。腐りかけた魚の内臓の中で蠢く蛆虫、白く滑らかな肌にそばかすの浮き出た女性の胸元、陽光の下で一面に広がる紫色のラヴェンダーの畑。また、遥か遠くの匂いまでも嗅ぎ当ててしまう主人公グルヌイユの超人的な嗅覚を表現するためのステディカムや空撮といったカメラワークも素晴らしいアイディア。とくに最後にローラを追いかけていくショットは映像を拡大して荒れ荒れになるのですが、それがまた彼の嗅覚の状態を表しているようで面白い。困難な課題に挑戦して見事に成功していたと言えるでしょう(監督は「ラン・ローラ・ラン」の人ですが、赤毛に何らかの思い入れがあるのでしょうか。それとも原作通り?)

しかし、クライマックスのシーンが全くわからない。香水の力で人々が愛の世界に没入する・・・ということなのですが、映像とは関係のない論理的な点から見ても、あれはエロスを高める香水なのか?それならばなぜ人々は乱交状態にならずにキリスト教的な一夫一婦制を守って愛の営みにふけるのだろうか?というのは多いに疑問でした(後で確認したら、原作では乱交状態でした。ということは・・・)。映像的には、主人公から香りが発散されるという描写がやっぱりいまいち(グルヌイユのあの仕草はね・・・。また、匂いをCGで表すような演出は全く考えなかったと監督は語っていますが、群集の上に光の筋が広がっていく効果が控えめではあるもののつけられていたのを私は見逃していません)。やはりこのとんでもないシーンを映像化するのには見事に失敗しているというのが正直な評価です。笑えるシーンにしかなっていない・・・ヨーロッパだと受け取り方はちょっと違うのかな。愛=セックスなんだろうか、やっぱり。大画面の中で男女の裸体がうじゃうじゃあるのがここの映像の見せ所なのですが、あの画面の中で性器を露出しないように演技指導するのはかなり大変なことのように思いました。お疲れ様です。

ということで、映像はとても美しいし、ストーリーも途中までは楽しめるのだけれど、肝心のクライマックスで一気に半分ぐらい減点されるという映画でした(クライマックスのシーンが予告編やポスターで印象的に使われているので、途中でなんとなく予測できてしまうというのも残念なポイント)。もうひとつ、ラトル指揮のベルリン・フィルの演奏はたぶんすごいと思うのですが、なにしろ映画に没入しているのではっきりと感想が言えません(それがいい映画音楽のあり方でしょう)。ただ、エンドロールの途中(かなり最後のほう)で出るフルート・ソロ(パユでしょうか?)はとても美しくて印象的でした。サントラ盤を買うかときかれたら、ちょっと考えてしまいますが。

トム・ティクヴァ監督、ドイツ・フランス・スペイン合作、2006年。

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Charaとコトリンゴ

UNION

Chara「UNION」

1990年代初頭の日本の音楽シーンには横文字の名前の女性シンガーが大勢現れましたが、その中で私が今でも聴き続けているのはUA、Aco、そしてCharaということになります。UAはどんどん変貌しながらエネルギッシュに力作を出し続け、Acoはしだいに寡作になりつつも宝石のような音の玉手箱をときどきそっと差し出すようになり、そしてCharaはある意味では全く変わっていません。しかしながらこの3人に共通するのは、声そのものに強いオリジナリティがあるということでしょうか。どんなバックトラックでも、この声が乗ればその人の曲になってしまう。一度好きになってしまうとなかなかやめられない、という中毒性の高い声の持ち主たちだと思います。

レコード会社移籍後初の、そして久しぶりのフルアルバムの登場(インディーズで1枚制作していますが、私は未聴)。先行発売されていた3枚のシングル(いずれもカップリングのカバー曲が秀逸だった)からも感じたことですが、ここしばらくのやや内向的な作風から一転して強いエネルギーを発散する作品になっています。「昔のCharaに戻った」というような声が聞かれるのも納得。しかしM③「Crazy For You」からのエレポップ3連発はちょっとびっくり。この4つ打ちとピコピコ感は何でしょうか?音響系/エレクトロニカを経由したエレポップはいま世界的に流行中のようなので、これらの曲もその流れの中に位置付けるべきものでしょう。全体的にポップな、しかしやはり切ないいつものCharaワールド。

Charaの声が喚起する中心的な感情、すなわり彼女の音楽の本質が「切なさ」(ブラジル音楽における「サウダーヂ」と同様に翻訳しにくい感情)にあることは衆目の一致するところだと思いますが、今回もその期待は裏切られません。また、歌詞カードを見なければ絶対に意味のわからない、完全にサウンドと一体化して効果をあげる歌詞(This is my car が「大切なんか」ですからね)もいつもながら。ここしばらくの内向的なCharaも結構気に入っていただけに、このアルバムを最初聴いたときはちょっと戸惑いも感じたのですが、やはり中毒性の高い声、繰り返して聴くうちにやはりどんどんクセになっていきます。あのフレーズ、あの言葉、あの部分の発声が気持ちいい、というレベルになっていくのです。どんなバックトラックでもCharaの声があればCharaの曲、というのはつまりそういうことです。さすがに「最高傑作」とまでは私は断言しません。しかしChara好きはこのアルバムに決して失望しないでしょう。というか、もう買ってるよね。

こんにちは またあした にちよ待ち

コトリンゴ「こんにちは またあした」「にちよ待ち」

坂本龍一プロデュースでデビューしたコトリンゴのシングル2枚。本名は三吉理絵子さんというようですが、なんというか、矢野顕子に似てますね、これ。英語の曲(「雨の日」)なんてほとんど「BROOCH」の世界ではないですか。教授、これでいいんですか。というのは冗談として。

基本的にピアノの弾き語りがベース。こういうほんわかした舌足らずな甘い声も私は好きです。それにピアノのセンスがとても良い。テンションを効果的に使ってジャズっぽい雰囲気を出していますが、決してバリバリと弾きすぎず(でもとても上手い)、間を生かしている感じ。「にちよ待ち」の5拍子スイングに弦楽四重奏がかぶさるアレンジも実に素敵。実に洗練された音楽です。このナチュラルな感覚はとっても気持ちがよいのですが、ただ、なんだか歌詞を含めて「ロハス音楽」という言葉が頭にちらついてしまうのがちょっと気になるところ。矢野顕子の音楽が初めから持っていたような「毒」(表現として過剰な部分)がここにはないんですね。とはいえ、そこまで求めるのは酷というものかもしれない。だから、この人がここからどう展開していくかがとても楽しみです。ライヴが聴きたいですね。

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ビル・ヴィオラ: はつゆめ

Main_photo_1 昨年、六本木の森美術館で開催していたヴィデオ・アーティスト、ビル・ヴィオラの個展「ビル・ヴィオラ はつゆめ」が兵庫県立美術館に巡回中。この日はビル・ヴィオラ本人によるアーティスト・トークもあったので、行ってきました。

兵庫県立美術館に行くのは実は初めてだったのですが、安藤忠雄の建築。海に面した立地を生かしたとても気持ちのよい空間に思えました。いろいろと探検したかったのですが、今回は時間がなかったので、建築についてのレヴューはまた改めてということで。

東京展は私が大阪に転勤してからのことだったので見ていません。規模は縮小されているらしく、展示作品は全部で9点。「ミレニアムの5天使」(2001)を見ることができなかったのはとても残念ですが、「はつゆめ」(1981)が毎日上映されているのはどうやら森美術館にはなかった趣向のようで、これはお得かも。それにしても、9作品でも全部きちんと見るのは大変なことです(時間的にも、体力的にも)。1日ではとても見きれないと思ったので、いくつかの作品に絞ることにしました。また行かねば。

まずは簡単な感想を。「クロッシング」(1996)の水と炎、死と再生の神話的イメージは圧倒的。もちろん映像のニュアンスは全く異なるのですが、素直にタルコフスキーを連想しました。「サレンダー/沈潜」(2001)は水に反射するイメージに対してヴィオラが強い興味を抱き続けていることを示す作品。私も子供の頃から水に映る光や色のパターン(運動する抽象的なイメージ)をじーっと見つめることが好きだったので、人の体が光のパターンに変容していくのを強い視覚的興味を持って見ました。「ラフト/漂流」(2004)はどうしても9.11へのオマージュに見えてしまうのですが(人々が象徴しているのはニューヨーク、あるいはアメリカそのものでしょうか)、こういう見方は良くないかもしれないですね。ハイスピード撮影されたハイビジョン映像と5.1chサラウンド音響の迫力が実に効果的。「驚く者の五重奏」(2000)や「グリーティング/あいさつ」(1995)のような、古典絵画の構図を引用して超スロー再生した静謐な作品群は、ヴィオラ独特の時間感覚を体感するのには最も適したもの。ヴィデオでありながら絵画を見ているようなこれらの作品を眺めていて思い出したのは、映像がいつしか絵になるソクーロフの「静かなる一頁」でした。そして「はつゆめ-田中大圓に」(1981)はこの個展のタイトルにもなった記念碑的な作品。後半の、車の窓ガラスを伝う水の描写が泳ぐ錦鯉に移り変わっていく件などは非常に美しいのですが、近作と並べて見てしまうと、テクノロジーの古さが意外と気になるのは事実。もちろんテクノロジーとは無関係に古びない力のある映像というのはあると思うのですが、ヴィデオ・アートというのは最新のテクノロジーと深く結びついたジャンルだけに、時の審判に耐えうる作品を作るのはなかなか難しいように思いました。

ビル・ヴィオラの作品展示においては、アーティストの意向により上映時間は明示されていません。これはすなわち、鑑賞者に物理的な時間の経過を忘れて作品に没入し、作品内の固有の時間の流れに能動的に同調することを求めていることを意味しています。与えられる刺激を受身で感じることに慣れてしまっている人にとっては、これはある意味忍耐力の必要な行為かもしれません。しかしその時間の流れを「ともに生きる」ことによって、ある感覚が生まれてくる。これがヴィオラのアートなのでしょう。ヴィオラは能とのアナロジーをよく語るようですが、私としてはむしろ座禅のような瞑想行為とより近似性があるような気がしました。このあたり、彼の表現の原点がヒッピー・カルチャーが目指した意識レヴェルの拡張にあることを改めて認識させます(神秘思想や東洋思想への傾倒も同根)。

満場の聴衆を前に行われた(そしてヴィデオで会場の外にも流された!)アーティスト・トークも大変面白いものでした。中心はアーティストとしての彼のテーマである時間論とコミュニケーション論について。道元・世阿弥・沢庵・良寛という4人の思想がその面で彼にどのようなインパクトを与えたか、というのは興味深い話でした。ただ、世界中でZENがファッション的に注目されている現在、このような話がどのように受け止められるのかというのはちょっと微妙なところがあるのかもしれません。しかしながら、大切なのはそこから彼が何を自分のアートに取り入れているのか、ということでしょう。トークの中でも作品を2つ見ました。Ancient of Times」(1979)はまさに時間論がテーマ。カメラが一定のスピードでパンやズームをしながら、時間の経過を示すためのトランジション(いわゆるオーヴァーラップ)を繰り返していくのは、当時の機材ではかなり難しいことだったと思います。この作品は「はつゆめ」とは違い、それほど古びた印象は持ちませんでした。そしてピーター・セラーズの新演出による「トリスタンとイゾルデ」のための映像(2004/05)は実に美しい作品。単純なのですが、水中撮影の映像がとても効果的です。このオペラ・プロダクション、サロネン指揮でパリ・バスティーユ・オペラで上演されたようなのですが、やはりヴィオラの映像の力が強すぎて演出にはブーが出たようです…。日本にもそのうちやってくるようなので、乞うご期待。

私も映像を手がける仕事をしているので、いろいろと興味深い展覧会でした。ひとつ思ったのは、もっと彼の使っているテクノロジーに注目した分析はないのだろうかということ。彼の芸術哲学についての言説は相当いろんなところで読むのですが、私としてはそれよりもどのような機材を使って、どのように撮って、どのように再生しているのかということに非常に興味があります。彼のアートを面白くしている大きな要因は、そのようなテクノロジーに対する想像力であるような気がするから。ヴィデオ・アートは玉石混交のジャンルであるというのが私の基本的な認識なのですが、さすがパイオニアのひとりだけあって、ヴィオラの作品は総合的に非常にクオリティの高いものだと感じました。彼の作品を見ていると、西洋美術の歴史においてペインティングというジャンルを発展的に引き継ぐのはヴィデオ・アートかもしれない、と思えてきてしまうのです。

トーク終了後、ヴィオラ氏本人と直接話す機会がありました。西海岸の人らしく実にフランクであたたかい人。いつか一緒に仕事ができたら面白いのですが…。さて、もう一度見に行かなくては。

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