ブログ移転します。

今後のSNSとの連携のため環境をすっきりさせたいと思い、同じ@nifty内ですがブログを移転します。新しいアドレスは

http://astralweeks.cocolog-nifty.com/blog/

です。思うところあって旧記事は引っ越しませんので、こちらのブログも残しておきます。アーカイヴとしてご覧ください。

それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

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ノリノリノリントン!

<1>

4月のN響定期Cプロ初日(22日、NHKホール)。指揮はロジャー・ノリントンということで、「対向配置、ノン・ヴィブラート」仕様のN響である。オール・マーラー・プロ。

花の章(ブルーミネ)
さすらう若者の歌(バリトン:河野克典)
交響曲第1番ニ長調「巨人」

つまり、第1番の成立にまつわる曲を集めたプログラム。もちろん、「さすらう若者の歌」のメロディーが第1番に転用されている(あるいは、ひとつのメロディーがふたつの曲で共有されている)ということを私はすでに知っている。しかし、この2曲をコンサートで続けて聴くことで、そのような前知識以上のことを体感することができる。例えば、歌曲集の第2曲にある「今朝、野山を歩いていると(Ging heut' morgen übers Feld)」の旋律が第1番の第1楽章に現れるとき、歌詞はなくても、そこには草露に濡れた野原の情景がありありと浮かんでくる。そして第4曲にある「道端に菩提樹が立っている(Auf der Strasse steht ein Lindenbaum)」の旋律が第3楽章に出てくれば、苦悩に打ちひしがれた者がたどりついたはかないやすらぎのイメージ(それは死のイメージとつながる)がすぐに想起されるという具合に。さらに、歌曲集そのものが「愛している人が自分以外の男と結婚する」という物語を持っていることを考えれば、第3楽章で葬送行進曲を中断して流れ出す賑やかな音楽は、ユダヤの婚礼音楽(すなわちクレズマー)以外のなにものでもないことに思い至る。第1番をより深く味わうためのプログラムといえる。

正面最後列に8本のコントラバスを並べた対向配置(ただしティンパニは2台とも舞台上手、下手は打楽器類)、ヴィブラートをかけすぎない「ピュア・トーン」の使用はやはりノリントン。しかし、そんなピリオド・アプローチ的な要素とは無関係に、これは素晴らしい演奏だった。全体的に音量を抑えながらも、ここぞとばかりに大爆発して急速なアッチェレランドをかけたり、第3楽章の中間部を実に夢幻的な音色で響かせてみたり(クレズマーも雰囲気が出ていて最高)。第4楽章のエンディングの速さも特徴的で、これを「あっさり薄口」と感じる人もいるのだろうけれど、名だたるマーラー指揮者たちによる過度にロマン的な解釈をはぎとった、新鮮な「巨人」像だと感じた。音楽をオケにまかせるように棒をふるノリントンも、この曲の指揮姿としてはあまりない感じで面白い。そして第4楽章の見得を切るようなゲネラル・パウゼ、好き。

<2>

神奈川フィルハーモニー第271回定期演奏会(4月23日、横浜みなとみらいホール)。指揮は金聖響で、マーラーの交響曲第7番。冒頭に金による震災へのコメントと、被災地に捧げるバッハのアリアがあった。

第7番の実演を聴くのが実にひさしぶり。なぜかここ4~5年、この曲がどこかのオケにかかるときいて聴きに行こうかなと思うたび(なんせ実演の少ない曲なので)、転勤になってしまったり、仕事の予定とかぶってしまったりで、いつもチャンスを逃していたのだ。金の指揮は実にエネルギッシュ。自分がまだスコアを勉強しきれていないせいもあるのだけれど、前半はこの曲ならではのごちゃごちゃ感が強く出てしまって、なかなかひとつの音楽として聴こえてこないもどかしさがあった。しかし第3楽章以降は見事にまとまって、第5楽章はかなりの熱演。第4楽章のマンドリン・ソロも印象的だった。

2年越しマーラー・イヤーの巡礼は続く・・・。

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マーラーおたくのための歴史的録音

51p7lwqjvll_sl500_aa300_1全国数千万(たぶん)のマーラーおたく必携のCDが出ました。ここから先は、マーラーおたくの人以外は読まなくても大丈夫です。読んでもたぶん何のことだかさっぱりわかりません。マーラーの未完の交響曲第10番の、ゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団による、いわゆる「クック第1稿」の初演(1960年12月19日のレクチャー・パフォーマンス)と、ゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団による「クック第2稿」の初演(1964年8月13日のプロムスにおける演奏)がカップリングされた3枚組CDです(Testament)。

まず前者はBBCのラジオ番組で、クック自らがピアノを弾きながら、ときにはオーケストラを部分的に響かせながら、曲を解説しているパート(Disc1、テキストはTestamentのHPでダウンロード可能) と、第1稿として演奏可能な部分をブロックごとに演奏しているパート(Disc2)に分かれています。曲として完成していない「第1稿」を聴けるのはこのCDだけで、演奏そのものはややぎこちない感じではありますが、非常に貴重な録音です。そして、アルマらから欠落部分の資料提供を受けて完成させた「第2稿」の初演(Disc3)。この演奏は素晴らしい。マーラーと親交があったゴルトシュミットの共感が深く入っていて、冒頭のヴィオラの歌から実にねっとりとしている。フィナーレに入る前後の大太鼓もドキッとするぐらい強烈に打ち込まれています。10番に関しては最近なんだかカーペンター版の録音が多いような気がしますが、これを聴くとやっぱりクックだよ!と思います。

ちなみに私はバルシャイ版も好きです。「もしショスタコーヴィチが補筆していたら…」という妄想を抱かせてくれるような響きだし、なによりナマが強烈だったので。感激のあまり、マエストロの楽屋まで押しかけてしまったのが懐かしい。もうバルシャイもこの世の人ではないのだなあ。

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雪のマラ3

Myungwhunchung1降りしきる雪の中、チョン・ミュンフン指揮、N響2月定期Cプロの初日を聴くためにNHKホールへ(2月11日)。曲はマーラーの3番。4管18形の大編成で、非常に充実した、かつ緻密な響き。聴いていて最初に頭に浮かんだのは "genau" という言葉。「正確」と訳すと少しニュアンスが違う。きっちりちゃんとして目が詰まっている感じ。そしてもうひとつ印象的だったのは、「音のないところ」にとてもこだわっていること。この曲にはしばしば、ひそやかな気配だけで音楽が進行していくところがある。それはちょうど、しんと静まり返った森の中で、なにか神聖なものの存在を感じたりするような感覚だ。そうした弱音の部分を、チョンは意識的に緊張感をもって響かせていたように思う。第1楽章の弱音の部分では、寝ている人のスースーといういびきがホール内に響くほどだった。見事なトロンボーン・ソロもこの感覚と調和していて、素晴らしい出来ばえ。

私は3階で聴いていたのだけれど、第3楽章のポストホルン(楽器はたぶんコルネット)はこれまで聴いた実演の中では最も遠くから聴こえてきた(2階通路奥で吹いていたらしい)。かなり遠い響きだったので、おそらく「遠すぎる」と感じた人もいたのではないか。しかしこれもおそらく弱音の演出のひとつで、単なる夢幻的なニュアンス以上のもの、はるか昔の遠い追憶(もう失われてしまった時間)を呼びおこすものであるように感じられた。

アルトの藤村さんが第4楽章で聴かせた深みのある歌唱は、この「夜の歌」のイメージをこの上なく巧みに表現したもの。そしてそれと響きあう最終楽章は、かなりテンポを落としてゆっくりと包み込むような感じだった。転調するたびに、天上から差してくる光がやわらかくうつろう。そしてクライマックスではティンパニ4台(下手に置かれていて、いつ使うんだろうと思っていた)という特別演出あり。さすがにエンディングはためて振るのでタイミングはわずかにずれてしまうが、音量と視覚的効果を最優先にした選択で、私は面白かったと思う。今日は拍手もブラヴォーもちゃんと棒が下ろされてからで、本当に好きな人たちが集まっているんだなあ、ということが伝わってきた。雪のおかげかな。

さて、この曲の実演では独唱者と女声合唱と児童合唱がどのタイミングでステージに入るのかがいつも気になるのだが、昨日は女声合唱だけ最初から座っていて、第3楽章の最後でまずゆっくりと独唱者が入ってきて、続いて児童合唱が急いで入ってくるというパターン。印象としてはちょっと慌ただしい。また最終楽章に入る前に着席の時間をとったので、スコアの指示通り Folgt ohne Unterbrechtung ではなかった。ここはやはりアタッカでいった方がいい。しかしともかく、音楽的に考え抜かれた感動的なマーラー3番だったと思う。一夜明けてすぐにいろいろブログ記事が出てきているので、聴いた人はそれぞれに強い印象を受けたのだろう。チョンのマーラーはもう何度か聴いているけれど、そんなにハズレがない。

<今日のいけしょう>
第4オーボエ奏者(イングリッシュ・ホルン持ち替え)として出演。そんなにイングリッシュ・ホルンのソロがたくさんある曲ではないけれど、決めどころはパーフェクトに決めてくるのがやっぱりいけしょうです。

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ファンタスティーク

K10040553031N響定期2月Aプロの初日を聴く(2月5日)。指揮はチョン・ミュンフン。

ジュリアン・ラクリンの独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。オケの作りは雄大な感じ。ラクリンの実演は初めてだが、美音派だ。ただ、ヴィブラートのかけ方は僕の好みとは少し違う。このタイプの速いヴィブラートは、僕には線が細く神経質に聴こえてしまう。でもこういうのを瑞々しいと感じる人もいるから、完全に好みの問題だ。また第1楽章は音程がわずかにフラットであるように感じたが、調弦し直した後の第2楽章からは気にならなかった。カデンツァはクライスラー。

他の人の記事を見ると、2日目のラクリンはアンコールでバッハの無伴奏を弾いたらしいが、初日は何もなし。

後プロはチョンの十八番であるベルリオーズの幻想交響曲。第1楽章から情熱的にガンガンいくタイプの演奏だが、N響はどんなに熱くなっても決して乱れない。第2楽章のコルネットはなし、ハープはやっぱり2台。第3楽章は完全にいけしょうが持っていく。第4楽章、第5楽章も情熱が迸るけれど合奏は実に緻密で、このあたりがN響の美点だ。聴き終わって充実感のある名演で、拍手も大きかった。

<今日のいけしょう>
「幻想」でコール・アングレ奏者として登場。第3楽章はおいしい。

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母は娘を産み、娘は母となる。

6faf9fdd9d5b82b2dc4008b65e5ed67c1男性である私にとっては、母と娘の絆というのはわかるようで本当にはわからない。父と息子との関係とは全然違う、女性どうしならではの深いつながりがあるように思う。それはあるときは押し付けがましいほどの愛情であり、またあるときは血の流れるような激しい憎しみであり、そしてまたあるときには底なし沼のようなべったりとした共依存であったりするのだろう。映画「愛する人」(原題: Mother and Child)はそんな母娘関係というテーマを、静かなドラマの中にとらえた秀作。

14歳で妊娠・出産し、母親の意思によって娘を養子に出さざるを得なかった主人公カレン。そして実の親を知らずに育ち、「産む性」であることを強く拒否するようになった娘エリザベス。生きる喜びを感じられず、氷の塊のように冷たく頑なだったふたりの心が、周囲の人々の愛を知ることによって少しずつほどけていく。やがてお互いを探し求めるようになる過程が、じんわりと抑制された語り口で描かれる。ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をテンプにしたと思しき音楽が、心に沁みる。

しかし、生き別れた母と娘はついに出会うことがない。物語としてこれ以上の悲劇はないだろう。それでも母は、娘が遺した孫娘に会うことで、大きな安らぎを得る。母から娘へ、そして娘から孫娘へ、命が継がれていくイメージが素晴らしい。そしてラストシーン、カレンがいまはもうこの世にいない娘にあてて書く手紙。うーんやられた・・・と思いつつも、涙を止めることができない。見る人の感情を深く揺さぶる映画だ。

ドラマの中には様々な母娘が繰り返し描かれる。そして繰り返される出産シーンは、母と娘の関係が「産む性」としてのフィジカルかつスピリチュアルなつながりであることを強調している。これは母と娘がどこまでも連なっていく物語であり、この連鎖の中では、男性はタネ付け(失礼)をするという以外にほとんど意味を持たない。男性としては複雑な心境なのだが、これが女性にとってのリアルな感覚なのだろうというのはわかる。母と娘はとても近く、とても遠く、ずっと離れていても片時も離れられない、そんなものなのだろうか。

プロデューサーは「バベル」のイニャリトゥ。独立して別々に進行する複数の物語が最後にひとつになるといういつもの手法は、ここでも効果的に用いられている。そして監督は、これでもう「ガルシア=マルケスの息子」という肩書から自由になることができるだろう。

ロドリゴ・ガルシア監督、2009年。

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70年代フランス賛

20517_01_l11970年代のフランス文化をいま振りかえると、確かにちょっと魅力的かもしれない。野暮ったさとおしゃれ感のギリギリのバランス。同時代的に体験していない人がこの感覚を理解してくれるかどうかわからないが、映画「しあわせの雨傘」は、そんな70年代後半のフランス文化へのオマージュともいえる作品だ。

果たしてこれは世界的なマーケットを意識しているのだろうかと思うほど、フランス人向けの内容。とある一地方におけるブルジョワと労働者階級の対立、そこにからむ自由奔放な恋愛劇。全体としては軽いコメディであり、物語は決して深刻にならない。まさにフランス的な笑劇(ファルス)だ。女性の自立をテーマにしているようにも見えるが、これも「当時はよくこういうことが話題になりましたよね」という記号として扱われているだけだと思う。それよりも、衣装や小道具に徹底されている70年代テイスト、合成画面を随所で用いるポップな編集、ミュージカルのように全編に流れる70年代後半のフレンチ・ポップスなどからして、この作品の本質は70年代フランスへのノスタルジーであり、それ以上でもそれ以下でもないと私は考える。フランス好きなら楽しめるだろう。作品としてのメッセージはないようなものだが、それをいうのはそれこそ野暮というもの。

むしろこれはカトリーヌ・ドヌーヴの映画だと考える方が良い(「ブルー・ハワイ」がエルヴィス・プレスリーの映画だというのと同じ意味で)。邦題は「シェルブールの雨傘」とかけたのだろうけれど、雨傘とドラマはそんなに関係ないのでちょっとミスリード気味だ。原題はブルジョワ夫人を象徴する「potiche=飾り壺」。それにしても、ブクブク太って見るも無残なドパルデューには口あんぐり。

フランソワ・オゾン監督、2010年。

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タンクの中の恐怖

T0009453p1レバノン戦争の初日を、戦車で侵攻したイスラエル軍の兵士の視点から描いた映画「レバノン」。そもそも「レバノン戦争」というものを生々しく感じることが(私を含めて)多くの日本人には難しいわけだが、なんでイスラエルの兵士がレバノンに侵攻しているのか、迷い込んだ先がなぜシリア占領地域なのか、そしてなぜ友軍がファランヘ党なのか、きちんと説明できる人もなかなかいないだろう。それだけこの戦いをめぐる政治状況は混沌としているのだが、どうやらそれは戦場の兵士たちにとっても同様だったようだ。自分たちがなぜここで戦っているのか、そして誰が敵であり、誰が味方なのかさえ、上官を含め誰もはっきりとはわかっていないのだ。

この映画の最重要ポイントは、戦争映画であるにもかかわらず、カメラが最初から最後まで狭い戦車の中から出ないというアイデアである。狙撃手は照準器を通してのみ、外の世界の悲惨な光景を見る。ドラマは徹底的に戦車の中という密室で進行し、暗闇の中でスクリーンを見つめる観客たちも、兵士たちと一緒に戦車の中に閉じこもっている感覚を味わう。極限状態の中で敵に囲まれ、戦場にぽつんと取り残されること。その恐怖感を兵士たちとともに感じることが、このアイデアの狙いだ。これが、兵士たちが感じていた感覚なのだ。

泥と油と血液が混じりあったドロドロの液体が、戦車の内壁をつたってたれていく。何度も繰り返されるそのしつこいショットが、監督が感じた戦場の空気を表している。それと対比される青空の下のひまわりの映像の鮮烈さ。ひとつの視点に徹底的にこだわり、伝えたいことに集中することでできあがった、恐ろしい映像作品だ。見終わった後は茫然としてしまう。殺し殺されるというこの恐怖が現実であったということに、言葉もない。

サミュエル・マオズ監督、2009年。

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SNSで人は幸せになれない

001l1つい先日、ゴールデン・グローブ賞4冠というニュースも飛び込んできた「ソーシャル・ネットワーク」。マーク・ザッカーバーグがどのようにして世界最大のSNSであるフェイスブックを始めたのかを題材とした映画だ(フェイスブックの発想がアイヴィー・リーグの学生クラブ=フラタニティから生まれているというのを初めて知ったが、なるほど納得)。よくできた青春物語ぐらいかなと思って観始めたら、予想を大きく裏切ってとても面白かった。すでに出ている「現代の『市民ケーン』」という評は、まさにその通りだと思うが、もう少しだけ付け加えたい。

単なる「億万長者の孤独」というだけではなく、ソーシャル・ネットワークという「人と人とのつながり」をつくるシステムを開発した張本人が、結局誰とも人間的な関係を結ぶことができないという皮肉がストーリーの基本にあることは確かだろう。しかもマーク自身は他人と深くつながりたいと熱望しているのにもかかわらず、である。それを阻んでいるのは彼の壮大な自己愛であり、コンプレックスに基づく自己顕示欲だ。そしてそのようなマークの姿は、実はSNSにどっぷりとつかってしまっている私たちの姿に重ねられていることを作品からきちんと読みとらなければならないだろう。彼がフェイスブックに登録したかつてのガールフレンドにメッセージを送り、執拗に何度もリロードしてメッセージが返ってきているかを確かめようとする姿は、自己愛にまみれながら、毎晩PCに向かって誰かと「つながろう」としている私たち自身の姿そのものなのだ。

しかしながら、作品全体としてはそういう特定の解釈をあまり押し付けてはこない。マークの姿(あるいはフェイスブックにまつわることのすべて)を多義的に描いていると感じられる。私よりももっと若い世代で、ITベンチャーに近い業界の人などは、マークという人物に強い親近感を持って感情移入して見るだろうし、ナップスター創業者のショーン・パーカーのスタイルを「クール」と感じたりするだろう。マークをアイデア盗用で訴える双子兄弟(これを実はひとりで演じていることに驚き。ティム・バートンのハンプティー・ダンプティーどころではない、驚くべき完成度)の主張に共感する人だっているかもしれない。ある意味、この物語に「悪人」はいないのだ。現在進行形の物語だけに、価値判断は観る人に委ねたいという監督の意図があるのだろう。だから先述したことも私なりの感じ方なのだが、SNSに一度ははまりながらもやめてしまった(そしてそれを本当に正解だったと思っている)私としては、ネットでのヴァーチャルなつながりのあり方がいかに進化していこうとも、深く感情的なリアルのつながり―家族との談笑、友人との握手、恋人との抱擁やキス―なしには人生は絶望的に空虚だと感じる。SNSは便利だ。しかしそれで人は幸せにはなれない。そしてそのことを一番よくわかっているのが、マーク・ザッカーバーグ本人なのだと思う。

監督のデヴィッド・フィンチャーと脚本のアーロン・ソーキンは素晴らしい仕事をしている。シフト・レンズを多用した映像には強くひきつけられるし(特にボート・レースでのティルト・シフト・レンズの異化効果は面白い)、冒頭のマークのナード(オタク)節全開の高速お喋りに始まる言葉の詰め込み方がまた凄い。トレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)の音楽も受賞に値する出来だったが、個人的にはエンディングにビートルズの Baby, You're Rich Man を持ってきたセンスに悶絶。本当に、どこまでも現代的で「クール」な作品だ。10年後に観れば、また全然違った風に感じるだろう。

デヴィッド・フィンチャー監督、2010年。

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JLG

Mainphoto1この映画についてはいくらでも書けるような気もするし、何を書いてもまったく徒労に終わるような気もする。だから観たという自分の記録として書き記し、手短に済ませよう。全編をHDカムで撮影し、ファイナル・カット・プロで編集したゴダール初の全編デジタル・シネマ、「フィルム・ソシアリスム」。ほぼすべてのセリフが引用(クレジットで典拠も示されている)。音も映像もノイズに満ち溢れており、ここにきてゴダールのソニマージュはまた全然違うところに向けて走り出している。もはやECMの音楽はなく、言葉を失うような美しいカットもない。アルゴ号をモチーフにして始まるストーリーは、ヨーロッパ文明の始原に向かっていくようにみえるが、その航海のどこかで音と映像の渦の中に飲み込まれ、あてどなく漂い続ける。ヨーロッパとは何か、どこから来たのか、そしてどこへ行こうとしているのかとゴダールは問うている。

ゴダールの映画は、音楽を聴くように観ないと「理解」できない。そしてその圧倒的な体験は、観た者が思わず何事かを語りたくなってしまうようなものだ。でも残念ながら、その体験を上手に語るだけの力を今の私は持っていない。うまく言葉にはできないけれど、なんだか凄いというものも世の中にはたくさんあるのだ。通人のふりをして借り物の言葉でゴダールを語ることは、この体験を矮小化してしまうだけのようにいまの私には感じられる。いまはただ、リアルタイムでゴダールを観ているということの意味を、いつか自分の言葉で語れるように準備しておくだけだ。それまでは「ノー・コメント」で。

ジャン=リュック・ゴダール監督、2010年。

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